
たくさんのご応募をいただき誠にありがとうございました。
2021年12月31日まで募集した「ランクル文学賞2021」合計83作品のご応募を頂きました。
「ランドクルーザーとあなたの物語」をテーマにした魅力あふれる素晴らしい作品をありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
数ある力作の中から選出された賞を発表いたします。
「ランドクルーザーとあなたの物語」をテーマにした魅力あふれる素晴らしい作品をありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
数ある力作の中から選出された賞を発表いたします。

大賞 『叔父さんの赤いプラド』 ペンネーム 羽根木 肇さん
ご本人より:若い頃からランクルにずっと憧れてきました。いつか乗りたいです。
この機会にランクルの物語を書きたくなりました。どうぞよろしくお願いいたします。
この機会にランクルの物語を書きたくなりました。どうぞよろしくお願いいたします。

選考委員長 柴田様より:引きこもりの1人の少年が、叔父さんの乗っているランドクルーザー・プラドを通して立ち直り、自分自身を再生していく姿を生き生きと描いている。
主人公の僕と、叔父さんとの2人だけのキャンプシーンが、焚き火の暖かさやカップラーメンの美味しさを感じられるほど心地好かった。大好きだった叔父さんが亡くなってからの、現在の主人公の成長した姿にも好感が持てた。
>>「叔父さんの赤いプラド」をPDFで読む
『叔父さんの赤いプラド』
当時、僕は十六歳だった。
その頃、僕は学校へ行けなくなり、毎日部屋で漫画を読んだりテレビゲームをしたりして、昼夜取り替えた日々を送っていた。退屈で鬱々とした日々だった。
言わば引きこもりだった僕を外に連れ出してくれたのは、叔父さんだった。
叔父さんは、母の歳の離れた弟で長く海外にいた。NPO法人で、中東の僻地に水を行き渡らせる事業に関わっていた。結局、現地の人間関係でいろいろあって日本に戻ってきたのだが、帰国したばかりの頃は、日本のテンポに戸惑い、どうしようか悩んでいたらしい。だから、僕が高校にうまく馴染めず、行かなくなってしまったことにシンパシーを感じてくれていたのかもしれない。
叔父さんは2002年型のランドクルーザー・プラドに乗って いた。知人が十年以上乗っていたものを譲り受けたのだそうだ。
ブラックの引き締まったボディ、精悍な顔立ちが迫力満点だった。
叔父さんはキャンプが好きだった。しょっちゅう、あちこちの山にキャンプに出かけていた。山の中にいると気分がいいらしい。
「たまには一緒に行かないか?」
僕はある日、叔父さんにそう誘われた。遅い朝食の後だった。
「めんど臭いからいい」
僕は断った。
「そうかあ、わかった」
叔父さんはにっこりとして言った。
叔父さんはたまに家に来て食事をしていった。僕の父にこれからのことをちょくちょく相談していたらしい。叔父さんは叔父さんなりに人生と格闘していたのだと、今は思う。だけどその頃は、ぶらぶらしている変な親戚としか思っていなかった。
僕がキャンプに初めて行ったのは、ほんの偶然でしかない。
僕はその日、徹夜でテレビゲームをして眠かった。
「コンビニにでも行こうよ」
叔父さんにそう誘われた。
「いいよ」
スナック菓子が切れていたし、ドリンクも買いたかった。
僕は叔父さんのランクルの助手席に初めて乗った。ほぼ寝ていなかった僕は、ランクルの振動が気持ちよくていつの間にかぐっすり寝入ってしまった。
起きると…山の中にいた。
「ここはどこ?」
「青梅の方かな」
「なんでこんな所にいるの?」
「来たかったからさ。一緒に」
「帰りたい」
「それは無理だよ」
辺りには、まるっきり人の気配がない。
「ここは?」
「友達の実家の山さ。自由に使っていいって言われてるんだ」
「そうなんだ」
「とにかく焚き火でもしよう。夜になると冷えるからな」
「は? 泊まるの」
「ああ」
叔父さんは僕の不満顔などお構いなしに、辺りを歩き回り、薪になりそうな木を拾ったり、切ったりしはじめた。
僕はウインドブレイカーのポケットに両手を突っ込んだまま、ランクルにもたれていた。鳥の声に混じって水の流れる音がどこからか聞こえてきた。
叔父さんは荷台からキャンプ道具を手際よく取り出した。
焚き火台に枯れ枝を交差するように積み上げると、丸めた新聞紙にライターで火をつけた。やがて枯れ木のパチパチはぜる音がし始めた。火が上がり焚き火が始まった。
「水を汲んできてくれないか」
「どこから?」
「そこの下の方に沢があるんだ」
叔父さんは枯れ枝で茂みの奥を差した。僕はポリタンクを持って、小さくため息をついた。
「カレーとシーフードとノーマル、どれがいい?」
「カレー」
「じゃあオレはシーフードにしよう」
叔父さんは、カレー味のカップヌードルを僕に放った。
焚き火台ではケトルがもう湯気を立てて沸いていた。
「うまい…」
僕は夢中でカップヌードルを啜った。
「そうだろ?」
一人で、夜中に部屋で食べているのとおんなじ物なのに、なんでこんなに味が違うんだろう。
「外で食うとどんなものでもなぜか旨くなるんだ。不思議なもんだ」
「うん」
僕は素直に同意した。本当にそう思ったからだ。僕はスープの一滴まで飲み干した。
山はすぐに真っ暗になった。辺りで山の生き物たちの声がした。夜空に星が出ていた。焚き火の赤い火だけが僕たちの周囲を照らした。
「怖いか?」
「別に」
「そうか」
叔父さんはマグカップにティーバッグの紅茶を淹れてくれた。うちの紅茶より香りが強い。板チョコを二人で半分ずつにして食べた。
「美味しい」
「外で…」
「食べるからでしょ」
「そうだ」
僕たちは少し笑った。
火をぼんやり見ていると、だんだん眠くなる。叔父さんは僕に毛布を貸してくれた。
「眠くなったらクルマのシートを倒して寝ればいい」
叔父さんは、闇に溶け込んだランドクルーザー・プラドを指差した。
翌朝、朝日で目を覚ますと、叔父さんの姿はなかった。僕はランクルから降りて、近くの木の根元に小便をした。
「立ちション禁止!」
「え!」
「嘘、嘘! 思い切りしろ。外ですると…」
「気持ちいいよ!」
僕は大声で応えた。
叔父さんは、また火を起こした。それから、フライパンに卵を四つ割り入れ、ベーコンの塊と焼いた。周囲にいい匂いが流れた。焼き網の周囲に食パンを並べ、こんがりとトーストにした。
僕のお腹が鳴った。卵が半熟に焼き上がると、叔父さんが皿に取り分けてくれた。小さなボトルに入った岩塩を渡された。
「卵にパラパラ少し振るといい」
「うん」
その時食べさせてもらった朝飯ほど旨いものを僕はまだ知らない。
それから時々、僕は叔父さんについてキャンプに行くようになった。叔父さんのランクルは乗り心地も良かったが、居心地も良かった。
叔父さんは僕に色々教えてくれた。テントの張り方、焚き木の切り方、焚き火の起こし方、食事の作り方、火の始末のやり方…。僕は自然の中で何をすべきかを学んだ。
叔父さんは簡単で美味しい料理をいくつも作れた。なぜか目玉焼きですら叔父さんが作ると美味しいのだ。
「味付けは塩と、ここの空気だ」と叔父さんは言った。
だから、違う場所で作れば、違う味の目玉焼きになるらしい。
いつも、ランクルの傍で焚き火をした。焚き火の炎は、僕を柔らかい気持ちにしてくれる。僕は学校のこと、将来の不安のこと。好きな子のこと。読んだ本のこと。はまっているゲームのこと…色々話すようになった。
誰かと話すことが久しぶりだったから止まらなかった。叔父さんは、いつも黙って適当に相槌を打ちながら聞いてくれた。
翌春。僕は東京を離れ、バンコクに行くことになった。父が転勤になったのだ。
バンコクはエネルギーがあって、初めは馴染めなかったが、すぐに好きになった。僕は、バンコク市内にある日系のインターナショナルスクールに編入することになった。そこには、いろんなタイプの高校生がいて刺激もあったし、日本でのことを一旦チャラにできた。僕は狭い世界の住人だったことを知った。
僕がバンコクに残って、こっちの大学に行きたいと両親に言った時、父は賛成してくれた。
「確かに、これからはアジアだよな。活気がある。昔の日本みたいだよ。お前の思うようにしたらいい」
父は任期を終えると、母と共に日本へ帰った。
さらに数年が過ぎた。僕は大学四年生になった。
僕はバンコク大学で知り合った仲間や若手の起業家たちと起業する計画を立てていた。日本から訃報が入ったのは、ちょうどその頃だった。
叔父さんが、肺癌であっけなく死んだ。若かった分、癌の進行がとても早かったそうだ。
葬式で、叔父さんが最近農業をしていたことを知った。原種に近い野性味溢れるトマトのハウス栽培だ。南米のアンデス流を再現したものらしい。
葬儀で振る舞われた叔父さんの作ったトマトは素晴らしく美味しかった。試しに岩塩をパラパラと振って口に入れた。
火葬場の片隅で、叔父さんが空に煙になって上っていくのを僕はひとりで見ていた。
傍に叔父さんのお母さんがきた。つまり僕の母方のお婆ちゃんだ。
「あの子は、あなたのこと、とても心配していたのよ。若い頃の自分にとても似ているって言って」
「僕は…叔父さんのことがとても好きでした」
「そうね…。これ、あの子からの遺言。まあ、そんなオーバーなものじゃないけど」
お婆ちゃんは、僕におじさんからのメモを渡した。病院のベッドで書いたらしい。
『遺言! 俺のランクルはお前に譲る。俺の分まで乗ってくれ。そして、自然の中に連れ出してやってくれ。まだまだメンテすれば元気なはずさ』
僕は手紙を握りしめ、その場に崩れ落ちて、泣いた。
叔父さんが死んで二年が過ぎた。僕は日本に帰ってきた。
僕はいまも叔父さんのランクルに乗っている。走行距離は25万キロをとっくに超えている。だけど、元気だ。エンジンはオーバーホールしてある。タイミングベルトもこの前交換したばかりだ。他の消耗部品もマメに交換している。
僕は今、九州の大分県に住んでいる。オーバーに言えば、ここにいて世界で仕事をしている。
アジアのいろんな国ではコーヒー豆を栽培している。例えば、ベトナム、インドネシア、インド。それぞれの農園と直に取引して、豆を輸入している。
大学の友人やバンコクの起業家と会社を起こしたのだ。僕は日本で販路を開拓し、そして少量だが焙煎もする。今は九州エリアを開拓中だ。もちろん、まだまだスモール・ビジネスだけど。それでいい。
僕は時々キャンプに出かける。今回は湖のそばにあるオートキャンプ場に来た。相変わらず平日は空いているキャンプ場だ。でもすごく居心地がいい。
焚き火をしながら、自分で焙煎した珈琲を淹れる。深煎りのコクと苦味があるものが僕の好みだ。挽き立ての粉に熱い湯を落とすと、いい香りが辺りに漂う。
珈琲の香りに誘われたのか、一人のキャンパーが挨拶にやってきた。背が高く細身の華奢な女の子だった。ショートカットで軽装備のトレッキングシューズを履いている。
「いい香りですねー」
「あ、飲みますか?」
「え、いいですか?」
「ええ。珈琲まだたくさんありますから」
「じゃあ私、パウンドケーキ持ってきます」
彼女はそう言って自分のテントに走って行った。
僕たちは、二人で並んで珈琲を飲んだ。彼女の焼いたパウンドケーキもとても美味しい。
取り留めもなくいろんな話をした。彼女は山登りが好きだそうだ。最近ソロキャンプも始めたらしい。すごくコンパクトなキャンプをしている。夕闇が湖に降りてきた。
焚火の火が赤くなった。
「ところで、すごく古いランクルに乗ってるんですね?」
「ええ…大切な人から譲り受けたんですよ」
「へえ。なんか物語がありそう。どんなです?」
「ちょっと長くなるかもしれませんが、いいですか?」
僕は笑顔で言った。
「ぜひぜひ。夜は長いですから」
彼女は珈琲を一口飲んでから笑った。すごく自然な笑顔だった。
焚き火の火は、誰かに何かを話したくなる。
そうだったね、叔父さん…。僕は、ランクルに目をやる。
ボディは、叔父さんが作っていたトマトのように真っ赤にオール・ペイントした。ルーフトップは白だ。バンパーをアルミ製の物に換えた。それで顔つきが一段とクールになった。
きっと、叔父さんもそう言う。
その頃、僕は学校へ行けなくなり、毎日部屋で漫画を読んだりテレビゲームをしたりして、昼夜取り替えた日々を送っていた。退屈で鬱々とした日々だった。
言わば引きこもりだった僕を外に連れ出してくれたのは、叔父さんだった。
叔父さんは、母の歳の離れた弟で長く海外にいた。NPO法人で、中東の僻地に水を行き渡らせる事業に関わっていた。結局、現地の人間関係でいろいろあって日本に戻ってきたのだが、帰国したばかりの頃は、日本のテンポに戸惑い、どうしようか悩んでいたらしい。だから、僕が高校にうまく馴染めず、行かなくなってしまったことにシンパシーを感じてくれていたのかもしれない。
叔父さんは2002年型のランドクルーザー・プラドに乗って いた。知人が十年以上乗っていたものを譲り受けたのだそうだ。
ブラックの引き締まったボディ、精悍な顔立ちが迫力満点だった。
叔父さんはキャンプが好きだった。しょっちゅう、あちこちの山にキャンプに出かけていた。山の中にいると気分がいいらしい。
「たまには一緒に行かないか?」
僕はある日、叔父さんにそう誘われた。遅い朝食の後だった。
「めんど臭いからいい」
僕は断った。
「そうかあ、わかった」
叔父さんはにっこりとして言った。
叔父さんはたまに家に来て食事をしていった。僕の父にこれからのことをちょくちょく相談していたらしい。叔父さんは叔父さんなりに人生と格闘していたのだと、今は思う。だけどその頃は、ぶらぶらしている変な親戚としか思っていなかった。
僕がキャンプに初めて行ったのは、ほんの偶然でしかない。
僕はその日、徹夜でテレビゲームをして眠かった。
「コンビニにでも行こうよ」
叔父さんにそう誘われた。
「いいよ」
スナック菓子が切れていたし、ドリンクも買いたかった。
僕は叔父さんのランクルの助手席に初めて乗った。ほぼ寝ていなかった僕は、ランクルの振動が気持ちよくていつの間にかぐっすり寝入ってしまった。
起きると…山の中にいた。
「ここはどこ?」
「青梅の方かな」
「なんでこんな所にいるの?」
「来たかったからさ。一緒に」
「帰りたい」
「それは無理だよ」
辺りには、まるっきり人の気配がない。
「ここは?」
「友達の実家の山さ。自由に使っていいって言われてるんだ」
「そうなんだ」
「とにかく焚き火でもしよう。夜になると冷えるからな」
「は? 泊まるの」
「ああ」
叔父さんは僕の不満顔などお構いなしに、辺りを歩き回り、薪になりそうな木を拾ったり、切ったりしはじめた。
僕はウインドブレイカーのポケットに両手を突っ込んだまま、ランクルにもたれていた。鳥の声に混じって水の流れる音がどこからか聞こえてきた。
叔父さんは荷台からキャンプ道具を手際よく取り出した。
焚き火台に枯れ枝を交差するように積み上げると、丸めた新聞紙にライターで火をつけた。やがて枯れ木のパチパチはぜる音がし始めた。火が上がり焚き火が始まった。
「水を汲んできてくれないか」
「どこから?」
「そこの下の方に沢があるんだ」
叔父さんは枯れ枝で茂みの奥を差した。僕はポリタンクを持って、小さくため息をついた。
「カレーとシーフードとノーマル、どれがいい?」
「カレー」
「じゃあオレはシーフードにしよう」
叔父さんは、カレー味のカップヌードルを僕に放った。
焚き火台ではケトルがもう湯気を立てて沸いていた。
「うまい…」
僕は夢中でカップヌードルを啜った。
「そうだろ?」
一人で、夜中に部屋で食べているのとおんなじ物なのに、なんでこんなに味が違うんだろう。
「外で食うとどんなものでもなぜか旨くなるんだ。不思議なもんだ」
「うん」
僕は素直に同意した。本当にそう思ったからだ。僕はスープの一滴まで飲み干した。
山はすぐに真っ暗になった。辺りで山の生き物たちの声がした。夜空に星が出ていた。焚き火の赤い火だけが僕たちの周囲を照らした。
「怖いか?」
「別に」
「そうか」
叔父さんはマグカップにティーバッグの紅茶を淹れてくれた。うちの紅茶より香りが強い。板チョコを二人で半分ずつにして食べた。
「美味しい」
「外で…」
「食べるからでしょ」
「そうだ」
僕たちは少し笑った。
火をぼんやり見ていると、だんだん眠くなる。叔父さんは僕に毛布を貸してくれた。
「眠くなったらクルマのシートを倒して寝ればいい」
叔父さんは、闇に溶け込んだランドクルーザー・プラドを指差した。
翌朝、朝日で目を覚ますと、叔父さんの姿はなかった。僕はランクルから降りて、近くの木の根元に小便をした。
「立ちション禁止!」
「え!」
「嘘、嘘! 思い切りしろ。外ですると…」
「気持ちいいよ!」
僕は大声で応えた。
叔父さんは、また火を起こした。それから、フライパンに卵を四つ割り入れ、ベーコンの塊と焼いた。周囲にいい匂いが流れた。焼き網の周囲に食パンを並べ、こんがりとトーストにした。
僕のお腹が鳴った。卵が半熟に焼き上がると、叔父さんが皿に取り分けてくれた。小さなボトルに入った岩塩を渡された。
「卵にパラパラ少し振るといい」
「うん」
その時食べさせてもらった朝飯ほど旨いものを僕はまだ知らない。
それから時々、僕は叔父さんについてキャンプに行くようになった。叔父さんのランクルは乗り心地も良かったが、居心地も良かった。
叔父さんは僕に色々教えてくれた。テントの張り方、焚き木の切り方、焚き火の起こし方、食事の作り方、火の始末のやり方…。僕は自然の中で何をすべきかを学んだ。
叔父さんは簡単で美味しい料理をいくつも作れた。なぜか目玉焼きですら叔父さんが作ると美味しいのだ。
「味付けは塩と、ここの空気だ」と叔父さんは言った。
だから、違う場所で作れば、違う味の目玉焼きになるらしい。
いつも、ランクルの傍で焚き火をした。焚き火の炎は、僕を柔らかい気持ちにしてくれる。僕は学校のこと、将来の不安のこと。好きな子のこと。読んだ本のこと。はまっているゲームのこと…色々話すようになった。
誰かと話すことが久しぶりだったから止まらなかった。叔父さんは、いつも黙って適当に相槌を打ちながら聞いてくれた。
翌春。僕は東京を離れ、バンコクに行くことになった。父が転勤になったのだ。
バンコクはエネルギーがあって、初めは馴染めなかったが、すぐに好きになった。僕は、バンコク市内にある日系のインターナショナルスクールに編入することになった。そこには、いろんなタイプの高校生がいて刺激もあったし、日本でのことを一旦チャラにできた。僕は狭い世界の住人だったことを知った。
僕がバンコクに残って、こっちの大学に行きたいと両親に言った時、父は賛成してくれた。
「確かに、これからはアジアだよな。活気がある。昔の日本みたいだよ。お前の思うようにしたらいい」
父は任期を終えると、母と共に日本へ帰った。
さらに数年が過ぎた。僕は大学四年生になった。
僕はバンコク大学で知り合った仲間や若手の起業家たちと起業する計画を立てていた。日本から訃報が入ったのは、ちょうどその頃だった。
叔父さんが、肺癌であっけなく死んだ。若かった分、癌の進行がとても早かったそうだ。
葬式で、叔父さんが最近農業をしていたことを知った。原種に近い野性味溢れるトマトのハウス栽培だ。南米のアンデス流を再現したものらしい。
葬儀で振る舞われた叔父さんの作ったトマトは素晴らしく美味しかった。試しに岩塩をパラパラと振って口に入れた。
火葬場の片隅で、叔父さんが空に煙になって上っていくのを僕はひとりで見ていた。
傍に叔父さんのお母さんがきた。つまり僕の母方のお婆ちゃんだ。
「あの子は、あなたのこと、とても心配していたのよ。若い頃の自分にとても似ているって言って」
「僕は…叔父さんのことがとても好きでした」
「そうね…。これ、あの子からの遺言。まあ、そんなオーバーなものじゃないけど」
お婆ちゃんは、僕におじさんからのメモを渡した。病院のベッドで書いたらしい。
『遺言! 俺のランクルはお前に譲る。俺の分まで乗ってくれ。そして、自然の中に連れ出してやってくれ。まだまだメンテすれば元気なはずさ』
僕は手紙を握りしめ、その場に崩れ落ちて、泣いた。
叔父さんが死んで二年が過ぎた。僕は日本に帰ってきた。
僕はいまも叔父さんのランクルに乗っている。走行距離は25万キロをとっくに超えている。だけど、元気だ。エンジンはオーバーホールしてある。タイミングベルトもこの前交換したばかりだ。他の消耗部品もマメに交換している。
僕は今、九州の大分県に住んでいる。オーバーに言えば、ここにいて世界で仕事をしている。
アジアのいろんな国ではコーヒー豆を栽培している。例えば、ベトナム、インドネシア、インド。それぞれの農園と直に取引して、豆を輸入している。
大学の友人やバンコクの起業家と会社を起こしたのだ。僕は日本で販路を開拓し、そして少量だが焙煎もする。今は九州エリアを開拓中だ。もちろん、まだまだスモール・ビジネスだけど。それでいい。
僕は時々キャンプに出かける。今回は湖のそばにあるオートキャンプ場に来た。相変わらず平日は空いているキャンプ場だ。でもすごく居心地がいい。
焚き火をしながら、自分で焙煎した珈琲を淹れる。深煎りのコクと苦味があるものが僕の好みだ。挽き立ての粉に熱い湯を落とすと、いい香りが辺りに漂う。
珈琲の香りに誘われたのか、一人のキャンパーが挨拶にやってきた。背が高く細身の華奢な女の子だった。ショートカットで軽装備のトレッキングシューズを履いている。
「いい香りですねー」
「あ、飲みますか?」
「え、いいですか?」
「ええ。珈琲まだたくさんありますから」
「じゃあ私、パウンドケーキ持ってきます」
彼女はそう言って自分のテントに走って行った。
僕たちは、二人で並んで珈琲を飲んだ。彼女の焼いたパウンドケーキもとても美味しい。
取り留めもなくいろんな話をした。彼女は山登りが好きだそうだ。最近ソロキャンプも始めたらしい。すごくコンパクトなキャンプをしている。夕闇が湖に降りてきた。
焚火の火が赤くなった。
「ところで、すごく古いランクルに乗ってるんですね?」
「ええ…大切な人から譲り受けたんですよ」
「へえ。なんか物語がありそう。どんなです?」
「ちょっと長くなるかもしれませんが、いいですか?」
僕は笑顔で言った。
「ぜひぜひ。夜は長いですから」
彼女は珈琲を一口飲んでから笑った。すごく自然な笑顔だった。
焚き火の火は、誰かに何かを話したくなる。
そうだったね、叔父さん…。僕は、ランクルに目をやる。
ボディは、叔父さんが作っていたトマトのように真っ赤にオール・ペイントした。ルーフトップは白だ。バンパーをアルミ製の物に換えた。それで顔つきが一段とクールになった。
きっと、叔父さんもそう言う。
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佳作 『父のランクル』ペンネーム A.Milltzさん
ご本人より:完全なノンフィクションではありませんが、実際の出来事に基づいた物語です。なにとぞよろしくお願いいたします。
選考委員長 柴田様より:今回の応募には、“お父さんのランクル”という切り口が多かった。この『父のランクル』もそのひとつ。
親族からは“ろくでなし”と言われていたお父さんが、主人公の“わたし”にとっては愛しくて頼もしい良い父親だった。その父親とわたし、友人との釣りのシーンが、1台のランクルを通して時に楽しく、時にほろ苦く描かれている。そしてラストのランクルとの再会も印象的だった。
>> PDFファイルでご覧になれます。 -
佳作 『歌声』 ペンネーム 藍上陸さん
ご本人より:私の父が他界し、所有していたランクル60が弟に引き継がれたときの体験をもとに書きました。昔のことなので台詞などはかなり想像で補っているところがあるので、ノンフィクションというより私小説と呼ぶべきかもしれませんが、登場人物や作中で起きたことはほぼ実際の通りです。
ご選考のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
選考委員長 柴田様より:これも主人公の”俺”の”親父”が残した1台のランドクルーザーにまつわる物語。父親の死からはじまり、形見のランドクルーザーを通して、家族で行ったサファリパークやスキー旅行、中学生の時に部活の大会に送ってもらった時の回想が、淡々と綴られる。タイトルの『歌声』の元になったラストシーンにも哀愁を感じた。
>> PDFファイルでご覧になれます。 -
特別賞 『苦楽を共にした相棒』 高山良二さん
ご本人より:カンボジアの地雷原で苦しい時も、楽しい時もいつも一緒にいてくれた相棒(ランドクルーザーV6,V8)とともに紡いださまざまな思い出を心を込めてつづりました。
選考委員長 柴田様より:筆者は陸上自衛隊を定年退官直後、かつてPKO活動に従事したカンボジアに渡り、約20年間現地住民と共に地雷・不発弾処理と地域復興支援を続けている。
実体験をベースにしたノンフィクションだけに無類の迫力があった。文中に登場したV6とV8のランドクルーザーにも、改めてこの車の凄さを再認識させられた。
>>PDFファイルでご覧になれます。
※特別賞は当初予定にはありませんでしたが、海外でも活躍するランドクルーザーの物語を見せていただけたという点で特別に賞を設定いたしました。
- ランドクルーザー70周年企画
- 「父のランクル」を読む
- 「歌声」を読む
- 「苦楽を共にした相棒」を読む
『父のランクル』
わたしの父は、ろくでなしだったらしい。
“らしい”というのは、それが母親の両親、つまりわたしの祖父と祖母がそう話しているのを聞いたからだ。
ちなみに彼らの名誉のために書いておくと、祖父母がわたしに直接そう言ったのではなく、祖父母が父について吐き捨てるように話しているのを、幼いわたしが盗み聞きしていた、というのが真相だ。
今になって思うと、娘の身を案じ、父を憎んだ祖父母の気持ちは痛いほどにわかる。しかし、当時の、幼い日のわたしには、父を侮辱した祖父母がどうしても許せず、さりとて普段は優しい祖父母が鬼のような顔で話している中に割って入ることもできずに、独り泣きじゃくるしかできなかった。
わたしにとって父は、優しくて頼もしい、むしろ良い父親だった。幼かったわたしには、父が週末だけしか家にいないことの意味はわからなかったし、それが家族として不自然なことだとも思わなかった。当時のわたしにとって重要なことは、父が今週末に家にいるかどうか、ランクルで自分をどこに遊びにつれて行ってくれるのかどうか、それだけだった。毎週土曜日の夕方になると、わたしはそわそわしていたと思う。何度となく、母に尋ねた。
「明日お父さん、家に来るん?」
そのたび、母は曖昧に答えた。
「さあ、どうやろう」
日曜日の朝は、起こされなくても早く目が覚めた。そして、窓から道路を眺める。愛嬌のある丸いライト。温かみのあるベージュの車体。賑やかなディーゼルエンジンとその排気音。父のランクルが来ると、わたしは通りに飛び出た。
「おう、起きとったんか」
第一声、父は必ずそう言った。
「起きとるわ。僕は早起きやねん」
そんなようなことを毎回言っていたように思う。父の挨拶代わりの言葉はよく覚えているが、自分がそれにどう返していたかはあまり覚えていない。
「今日は釣りに行こか」
暖かい季節になると、父はよくそう言った。ランクルに乗って三十分も走れば、ハヤが釣れる川に着く。延べ竿に道糸とハリスと針だけのシンプルな仕掛け。ウキは付けずに、ガン玉は極小を選ぶ。エサはなんだって構わない。その辺の石をひっくり返して川虫などを捕まえる。エサ取りはわたしの役目だった。わたしが川虫を採っている間、父はタバコを吹かしていた。そして、思いついたように話をしてくれたりした。
「俺の子供時分は、もっと下流のほうでもハヤがなんぼでもおった。川虫なんか採らんでも、なんやったら針を流すだけでも釣れたもんや」
「ほんなら、アマゴなんかもこの辺で釣れたん?」
わたしが聞くと、父は笑った。
「アマゴがこの辺で釣れるかいや。アマゴはもっと山の上のほうまで行かんと釣れへんわ」
「えー、僕アマゴ釣りたいわ。今度連れてってや」
「おう今度な。今度、ランクルで連れてったらあ」
川沿いに止めたランクルを、父が振り仰いだ。子供心に、父がランクルを大切にしているのが分かった。ランクルはいつもピカピカで、室内はいつも同じ匂いがした。父を思い出すとき、記憶の中の父は、たいていランクルを運転している。
その日曜日は、わたしにとって特別だった。いつもより更に早起きして、ランクルを待った。朝靄の中、ディーゼルエンジンの排気音が聞こえた。父のランクルだ。わたしは表に飛び出した。
「あんまり危ないことせんといてよ。今日はなんや天気良うないみたいやし…」
「わかっとるがな」
母の心配を笑い飛ばし、父は弁当を受け取った。わたしも釣り道具と雨合羽の入ったリュックをトランクに入れる。
「ミミズも採ってきとるから」
わたしが言うと、父は喜んだ。
「おう、今朝は雨で水が濁っとるから、ミミズが一番ええんじゃ」
もう釣れたも同然や。父は上機嫌で運転席に乗り込んだ。
息を詰めてミミズを流す。しかし、増水して濁った流れは思ったより強く、意に反してミミズを弾き返してしまう。
「貸してみい」
父は竿を受け取ると、ポケットから大きめのガン玉を取り出して、針の上三十センチに着けた。
「アマゴの気持ちになるんや」
そう言って、わたしに竿を返した。わたしは大きくうねる流れを見つめる。この強い流れの中、アマゴはどこにいるのか? 流れを避けているのか、それとも果敢にエサを狙っているのか? 隠れた岩は? 流れのたるみは? 再び息を詰め、ミミズを流す。たるみの真ん中に吸い込まれたミミズは、道糸の印を残してゆっくりと回転し始める。と、道糸が上流に走った。竿を絞ると、掌にビクビクと躍動感が伝わってきた。アマゴだ。シャープな魚体に淡青色の斑紋。朱色斑も鮮やかな渓流の女王が、水面から飛び出た。
その日はとにかく釣れた。ここぞというポイントには、必ずアマゴがいた。しかも釣れる直前に、それがわかった。底のたるみから飛び出し、ミミズめがけて喰らいつくアマゴ。そのイメージが、実際に目で見えるようだった。いわゆる神懸かり的というやつだ。
「仕舞え。戻るぞ」
突然、父が言った。いくらでもアマゴはいるし、まだまだ全然釣り足りない。
「なんでよ、まだええやん」
振り返ると、厳しい表情をした父が、上流を睨んでいた。
「上流で雨が降っとる。ぼやぼやしとったら流されてまう」
竿を仕舞うか仕舞わないかの内に、雨が降り出した。じきに雨は強くなり、空は雨雲で厚く塗り固められた。流れに葉っぱや小枝が混じり始め、見る見るうちに水嵩が増える。轟轟と飛沫を上げる流れは、今朝と同じ沢とは到底思えない。夢中で林道に這い上がり、そこで初めて自分の脚が震えている事に気がついた。
父と二人、這う這うの体で車止めまで戻り、ずぶ濡れのままランクルに乗った。ドアを閉め、エンジンを掛けた瞬間、わたしは一気に安堵感に包まれた。
「えらい危なかったな」
「もうちょいで流されるとこやったで」
奇妙な高揚感に支配され、わたしはさっきまでの冒険譚をまくし立てた。ずぶ濡れの父も、わたしと同じく興奮していたように思う。身体を拭きながら、二人して飽きることなく話し合った。服を着替え終え、エアコンの吹き出し口から暖かい風が流れ出はじめても、わたしは話し続けた。アマゴの引き。アマゴの美しさ。釣れる直前の直感。美しくも怖しい沢の流れ。話すことは尽きなかった。
アマゴ釣りと言えば、ほろ苦い思い出もある。同級生の隆志も誘って、父のランクルで釣りに出掛けた。その頃にはわたしも一端の山釣り師のつもりで、隆志に釣りを教えてやった。釣りそのものは楽しかったのだが、事は帰り道、車止めのランクルまで林道を戻っているときに起こった。途中で腹が痛いと言い出し、野糞を始めた隆志をわたしがからかった。
「臭いのう、おまえ修二みたいやんけ」
「あほか、あんなケツメドと一緒にすんな」
「修二とおまえはどっちもケツメドじゃ」
その時、煙草をふかしていた父が言った。
「ケツメドっちゃあどういうことや?」
「あいつ授業中に糞漏らしよったから、みんなでケツメドって決めたんや」
そう言いながら振り返ると、それまで見たこともないような恐ろしい顔で父がわたしを見つめてきた。
「あいつが糞漏らしたから悪いねん。修二が便所行くたびにみんなでついて行って…」
糞を終えた隆志がそう言いながら草むらから出てきて、そして父の顔を見て固まった。
「修二の気持ちになってみいや」
言うなり、父の平手が隆志に飛んだ。そして、間発入れずにわたしにも。
三人とも黙々と歩き続け、ランクルに戻った。わたしたちがしょんぼりしたまま席に座っていると、父がトランクのクーラーボックスから冷えたコーラを出してくれた。
「今度の日曜日、修二も誘って釣りに行こ」
エンジンを掛けながら、父がそう言った。コーラの炭酸が、喉にしみた。
父に殴られたのは、それきりだ。
「あのときのおまえの父ちゃん、ほんまに怖かったもんな」
帰郷して会うと、いまだに、酔っぱらった隆志はその話を持ち出す。そして、決まってこう付け加えるのだ。
「でも、他所の家の子供を殴るっちゅうんは、なかなかできることやないで」
父になった隆志からすると、これは最大級の誉め言葉だそうだ。
つい最近の話だ。通勤途中、信号待ちでいつも眺める四駆専門の中古車屋に、丸目のランクルが停まっていた。僅かな時間だったし、遠目からだったが、それでも一目でわかった。あれは、父のランクルだと。
会社帰りにその中古車屋に寄って、父のランクルをよく観察した。ある程度の金額をかけてレストアされたらしく、年式の割にしゃんとしている。全バラに近い状態まで分解し、丁寧にボディを修復してからオールペンされたようだ。シートも張り替えられており、室内も申し分ない。父が自慢していたナルディのステアリングは純正に戻されているが、車内の匂いはあの当時のままだ。ボディ下回りにも錆はない。わたしは家に帰り、そのことを妻に話した。
「でも、それってお義父さんのランクルかどうかわからないでしょう」
「いや、わかる。間違いないねん」
わたしは即座に反論した。妻の表情が曇る。
「いや、違う違う。勘とかそういうんじゃなくて…」
努めて笑顔で、わたしは続けた。
「ビックリマンチョコって知っとるやろ? ほら、昔、ガキの時分に流行ったやん…」
頷く妻。
「あのシールをやな、ランクルのアームに貼ったんよ。アームっちゅうんは足回りの部品やから、下に潜り込まんと見えへんねん。父ちゃんが入院してランクルを売ってまう前に…」
「えっ本当に? じゃあそれが…」
「そうやねん。それがまだ貼ってあったんよアームに」
これって奇跡やん。運命やろ。わたしは畳み掛けた。
「あのランクルは、父ちゃんのランクルやねん。二人で釣りに行った、思い出のランクルやねん。誰がなんと言おうと、俺にとってはええ父ちゃんやってんよ」
わたしはグラスのビールを飲み干した。そして、大きく息を吐きだした。妻は黙っていた。
妻は賢明だ。わたしの気持ちをわかってくれるだろう。
それから程なくして、ランクルが我が家に来た。あの頃の匂い。あの頃の音。あの頃の振動。クラッチを踏み込み、ギアを一速に入れる。
“こないにロクマルのクラッチって重かったんや”
ギアストロークの長さも操作感たっぷりで悪くない。ディーゼルエンジンを唸らせて、ランクルは発進する。車を走らせるのではない。わたしはランクルを、父のランクルを走らせているのだ。
昨日、インターネットでナルディのステアリングを注文した。そして、念のために、ビックリマンチョコのシールを、ネットオークションで落札した
“らしい”というのは、それが母親の両親、つまりわたしの祖父と祖母がそう話しているのを聞いたからだ。
ちなみに彼らの名誉のために書いておくと、祖父母がわたしに直接そう言ったのではなく、祖父母が父について吐き捨てるように話しているのを、幼いわたしが盗み聞きしていた、というのが真相だ。
今になって思うと、娘の身を案じ、父を憎んだ祖父母の気持ちは痛いほどにわかる。しかし、当時の、幼い日のわたしには、父を侮辱した祖父母がどうしても許せず、さりとて普段は優しい祖父母が鬼のような顔で話している中に割って入ることもできずに、独り泣きじゃくるしかできなかった。
わたしにとって父は、優しくて頼もしい、むしろ良い父親だった。幼かったわたしには、父が週末だけしか家にいないことの意味はわからなかったし、それが家族として不自然なことだとも思わなかった。当時のわたしにとって重要なことは、父が今週末に家にいるかどうか、ランクルで自分をどこに遊びにつれて行ってくれるのかどうか、それだけだった。毎週土曜日の夕方になると、わたしはそわそわしていたと思う。何度となく、母に尋ねた。
「明日お父さん、家に来るん?」
そのたび、母は曖昧に答えた。
「さあ、どうやろう」
日曜日の朝は、起こされなくても早く目が覚めた。そして、窓から道路を眺める。愛嬌のある丸いライト。温かみのあるベージュの車体。賑やかなディーゼルエンジンとその排気音。父のランクルが来ると、わたしは通りに飛び出た。
「おう、起きとったんか」
第一声、父は必ずそう言った。
「起きとるわ。僕は早起きやねん」
そんなようなことを毎回言っていたように思う。父の挨拶代わりの言葉はよく覚えているが、自分がそれにどう返していたかはあまり覚えていない。
「今日は釣りに行こか」
暖かい季節になると、父はよくそう言った。ランクルに乗って三十分も走れば、ハヤが釣れる川に着く。延べ竿に道糸とハリスと針だけのシンプルな仕掛け。ウキは付けずに、ガン玉は極小を選ぶ。エサはなんだって構わない。その辺の石をひっくり返して川虫などを捕まえる。エサ取りはわたしの役目だった。わたしが川虫を採っている間、父はタバコを吹かしていた。そして、思いついたように話をしてくれたりした。
「俺の子供時分は、もっと下流のほうでもハヤがなんぼでもおった。川虫なんか採らんでも、なんやったら針を流すだけでも釣れたもんや」
「ほんなら、アマゴなんかもこの辺で釣れたん?」
わたしが聞くと、父は笑った。
「アマゴがこの辺で釣れるかいや。アマゴはもっと山の上のほうまで行かんと釣れへんわ」
「えー、僕アマゴ釣りたいわ。今度連れてってや」
「おう今度な。今度、ランクルで連れてったらあ」
川沿いに止めたランクルを、父が振り仰いだ。子供心に、父がランクルを大切にしているのが分かった。ランクルはいつもピカピカで、室内はいつも同じ匂いがした。父を思い出すとき、記憶の中の父は、たいていランクルを運転している。
その日曜日は、わたしにとって特別だった。いつもより更に早起きして、ランクルを待った。朝靄の中、ディーゼルエンジンの排気音が聞こえた。父のランクルだ。わたしは表に飛び出した。
「あんまり危ないことせんといてよ。今日はなんや天気良うないみたいやし…」
「わかっとるがな」
母の心配を笑い飛ばし、父は弁当を受け取った。わたしも釣り道具と雨合羽の入ったリュックをトランクに入れる。
「ミミズも採ってきとるから」
わたしが言うと、父は喜んだ。
「おう、今朝は雨で水が濁っとるから、ミミズが一番ええんじゃ」
もう釣れたも同然や。父は上機嫌で運転席に乗り込んだ。
息を詰めてミミズを流す。しかし、増水して濁った流れは思ったより強く、意に反してミミズを弾き返してしまう。
「貸してみい」
父は竿を受け取ると、ポケットから大きめのガン玉を取り出して、針の上三十センチに着けた。
「アマゴの気持ちになるんや」
そう言って、わたしに竿を返した。わたしは大きくうねる流れを見つめる。この強い流れの中、アマゴはどこにいるのか? 流れを避けているのか、それとも果敢にエサを狙っているのか? 隠れた岩は? 流れのたるみは? 再び息を詰め、ミミズを流す。たるみの真ん中に吸い込まれたミミズは、道糸の印を残してゆっくりと回転し始める。と、道糸が上流に走った。竿を絞ると、掌にビクビクと躍動感が伝わってきた。アマゴだ。シャープな魚体に淡青色の斑紋。朱色斑も鮮やかな渓流の女王が、水面から飛び出た。
その日はとにかく釣れた。ここぞというポイントには、必ずアマゴがいた。しかも釣れる直前に、それがわかった。底のたるみから飛び出し、ミミズめがけて喰らいつくアマゴ。そのイメージが、実際に目で見えるようだった。いわゆる神懸かり的というやつだ。
「仕舞え。戻るぞ」
突然、父が言った。いくらでもアマゴはいるし、まだまだ全然釣り足りない。
「なんでよ、まだええやん」
振り返ると、厳しい表情をした父が、上流を睨んでいた。
「上流で雨が降っとる。ぼやぼやしとったら流されてまう」
竿を仕舞うか仕舞わないかの内に、雨が降り出した。じきに雨は強くなり、空は雨雲で厚く塗り固められた。流れに葉っぱや小枝が混じり始め、見る見るうちに水嵩が増える。轟轟と飛沫を上げる流れは、今朝と同じ沢とは到底思えない。夢中で林道に這い上がり、そこで初めて自分の脚が震えている事に気がついた。
父と二人、這う這うの体で車止めまで戻り、ずぶ濡れのままランクルに乗った。ドアを閉め、エンジンを掛けた瞬間、わたしは一気に安堵感に包まれた。
「えらい危なかったな」
「もうちょいで流されるとこやったで」
奇妙な高揚感に支配され、わたしはさっきまでの冒険譚をまくし立てた。ずぶ濡れの父も、わたしと同じく興奮していたように思う。身体を拭きながら、二人して飽きることなく話し合った。服を着替え終え、エアコンの吹き出し口から暖かい風が流れ出はじめても、わたしは話し続けた。アマゴの引き。アマゴの美しさ。釣れる直前の直感。美しくも怖しい沢の流れ。話すことは尽きなかった。
アマゴ釣りと言えば、ほろ苦い思い出もある。同級生の隆志も誘って、父のランクルで釣りに出掛けた。その頃にはわたしも一端の山釣り師のつもりで、隆志に釣りを教えてやった。釣りそのものは楽しかったのだが、事は帰り道、車止めのランクルまで林道を戻っているときに起こった。途中で腹が痛いと言い出し、野糞を始めた隆志をわたしがからかった。
「臭いのう、おまえ修二みたいやんけ」
「あほか、あんなケツメドと一緒にすんな」
「修二とおまえはどっちもケツメドじゃ」
その時、煙草をふかしていた父が言った。
「ケツメドっちゃあどういうことや?」
「あいつ授業中に糞漏らしよったから、みんなでケツメドって決めたんや」
そう言いながら振り返ると、それまで見たこともないような恐ろしい顔で父がわたしを見つめてきた。
「あいつが糞漏らしたから悪いねん。修二が便所行くたびにみんなでついて行って…」
糞を終えた隆志がそう言いながら草むらから出てきて、そして父の顔を見て固まった。
「修二の気持ちになってみいや」
言うなり、父の平手が隆志に飛んだ。そして、間発入れずにわたしにも。
三人とも黙々と歩き続け、ランクルに戻った。わたしたちがしょんぼりしたまま席に座っていると、父がトランクのクーラーボックスから冷えたコーラを出してくれた。
「今度の日曜日、修二も誘って釣りに行こ」
エンジンを掛けながら、父がそう言った。コーラの炭酸が、喉にしみた。
父に殴られたのは、それきりだ。
「あのときのおまえの父ちゃん、ほんまに怖かったもんな」
帰郷して会うと、いまだに、酔っぱらった隆志はその話を持ち出す。そして、決まってこう付け加えるのだ。
「でも、他所の家の子供を殴るっちゅうんは、なかなかできることやないで」
父になった隆志からすると、これは最大級の誉め言葉だそうだ。
つい最近の話だ。通勤途中、信号待ちでいつも眺める四駆専門の中古車屋に、丸目のランクルが停まっていた。僅かな時間だったし、遠目からだったが、それでも一目でわかった。あれは、父のランクルだと。
会社帰りにその中古車屋に寄って、父のランクルをよく観察した。ある程度の金額をかけてレストアされたらしく、年式の割にしゃんとしている。全バラに近い状態まで分解し、丁寧にボディを修復してからオールペンされたようだ。シートも張り替えられており、室内も申し分ない。父が自慢していたナルディのステアリングは純正に戻されているが、車内の匂いはあの当時のままだ。ボディ下回りにも錆はない。わたしは家に帰り、そのことを妻に話した。
「でも、それってお義父さんのランクルかどうかわからないでしょう」
「いや、わかる。間違いないねん」
わたしは即座に反論した。妻の表情が曇る。
「いや、違う違う。勘とかそういうんじゃなくて…」
努めて笑顔で、わたしは続けた。
「ビックリマンチョコって知っとるやろ? ほら、昔、ガキの時分に流行ったやん…」
頷く妻。
「あのシールをやな、ランクルのアームに貼ったんよ。アームっちゅうんは足回りの部品やから、下に潜り込まんと見えへんねん。父ちゃんが入院してランクルを売ってまう前に…」
「えっ本当に? じゃあそれが…」
「そうやねん。それがまだ貼ってあったんよアームに」
これって奇跡やん。運命やろ。わたしは畳み掛けた。
「あのランクルは、父ちゃんのランクルやねん。二人で釣りに行った、思い出のランクルやねん。誰がなんと言おうと、俺にとってはええ父ちゃんやってんよ」
わたしはグラスのビールを飲み干した。そして、大きく息を吐きだした。妻は黙っていた。
妻は賢明だ。わたしの気持ちをわかってくれるだろう。
それから程なくして、ランクルが我が家に来た。あの頃の匂い。あの頃の音。あの頃の振動。クラッチを踏み込み、ギアを一速に入れる。
“こないにロクマルのクラッチって重かったんや”
ギアストロークの長さも操作感たっぷりで悪くない。ディーゼルエンジンを唸らせて、ランクルは発進する。車を走らせるのではない。わたしはランクルを、父のランクルを走らせているのだ。
昨日、インターネットでナルディのステアリングを注文した。そして、念のために、ビックリマンチョコのシールを、ネットオークションで落札した
『歌声』
親父は六十五で亡くなった。
遺したものは、不動産屋としてみずから携わった築三十年の一軒家と、二十五年落ちの一台のクルマだけだった。
事業で失敗したから金はないし、趣味らしい趣味もなく、大げさでなく部屋はがらんどうだった。晩年は病がちでほとんど家から出なくなっていたので服も処分し、俺の記憶に残っている親父はいつも白い股引姿だ。
最後に生きている親父と会ったのは、俺が二十九で、お盆に帰省したときのことだ。親父はもう腹水がたまって、寝たきりになっていた。呼吸も始終苦しそうで、介護している母によると、ほとんど果物しか食べられなくなっているようだった。
酒が祟った肝硬変だった。周りがいくら説得しても病院へ行くことは本人が頑なに拒んだ。もともと糖尿を患っていたが、通院から遠のいて久しい。
死期を悟った親父は、長男である俺を枕元へ呼んで、二人きりの話をした。
「あれのことなんだけどな」
最初はなんのことだかわからなかった。
「お前は学校にやったから、あれは譲ってやれ」
ベッドに仰向いている親父の顔に耳を近づけて、その消え入りそうな声を必死に拾ってみると、それがどうやらランドクルーザーの話であるらしいことがわかった。うちは三人姉弟で、一つ上の姉と長男の俺は高校を出たあとも進学できたが、そこで家の蓄えがつき、三つ下の弟は進学できなかった。弟は平気な顔をして、もともと進学する気はなかったからべつにいいと高卒で働きに出たが、三人のなかで一番進学すべきだったのは弟なのにと俺はひそかに思っていた。
その弟に、家屋を除く唯一の財産であるランクル60をやるというのだ。むろん俺は賛成した。
くれぐれも葬式はあげてくれるな、散骨にしろ、といった後始末の希望を俺にぽつりぽつり伝え、親父は最後に、
「諸行無常」
と、しょげるようにつぶやいた。
葬式をあげるなと命じながら、最後にそんなことを言い残すなんて、この親父にしてはアイロニーが効いている。そんな神妙にしているやつほどまだまだ長生きするもんだ、と俺は励ますつもりで軽口を叩いたが、親父はさびしそうにほほえむだけだった。
それから一ヶ月と少しして親父は死んだ。
姉から電話で訃報を聞かされても、俺はとくに哀しいということはなかった。覚悟はしていたし、もともと仲が良かったわけでもない。むしろ俺は長らく親父を疎んじていた。親父は人嫌いで偏屈、なにかにつけてすぐ怒る性分な上に、やや耳も遠いものだから話すときも互いに怒鳴るようにしなければならず、よけいにこちらの気分が悪くなった。十代のころは何度後ろから殴りつけてやろうと思ったかわからない。
そんな親父の愛車だったから、決してランクルを欲しいとは思わなかった。弟はクルマ好きだから、ちょうどいい。
しかし、すんなりとはいかなかった。弟は全国に支店のあるホームセンターの社員なのだが、転勤が多く、数年ごとに住む場所が変わってしまう。親父が死んだときも地元の群馬とはべつの県で働いていた。社員寮に住んでいるという事情もあり、ふだん乗っているスポーツカーとランクル、二台とも引き連れていくことができず、結局ランクルは生家に留め置かれることになった。
群馬の片田舎だから庭だけは広く、野ざらしに駐めておくぶんには問題ないが、盗まれてもつまらないので、容易に持ちだされないよう庭の奥まったところに押し込めた。
「なんだかもったいない気がするねえ」
母の言葉に、でも仕方ないよ、だれも運転しないんだし、と俺はそっけなく返した。クルマに愛着のない俺は、いっそ売ってしまってもいいんじゃないかと思っていた。そのほうが面倒がなくていい。
「でもお父さんの形見だし」
母は少し名残惜しそうにしていた。弟も同じなようで、これからは定期的に帰省して、スポーツカーと交互に置き換えてローテーションで通勤に使うと言っていた。帰郷するのに何時間もかかるし、税金や車検代も馬鹿にならないだろうに、頭の下がる話だった。
芝生と雑草が伸び放題となった荒れ庭に、朱色と黄金色のサイドデカールの横線が走るランクルの車体はよく馴染んでいた。いまどきのクルマには見られないバンパーの無骨な張りだしと、角目4灯ヘッドランプの精悍なまなざしが、おれはここにいるぞと意気込んでいるようだ。
俺は故郷の村を出て一人暮らしをしていたから、もうランクルと関わることはないと思った。それが、しばらくして家に顔をだしたとき、母からランクルを運転してほしいと頼まれた。車検が切れるのだが、弟が仕事で忙しく、帰ってこられないらしい。代わりに俺が整備工場までクルマを運ぶことになった。
ランクルの運転は初めてで、その時分冬だったから、ちゃんとエンジンをかけられるか不安だった。ディーゼルの場合、グロープラグで予熱してからセルを回さなければいけないとだけ聞いていた。
手順を無視したら壊れるんじゃないかと心配し、白い息を吐きながらグローランプをじっと見つめた。そういえば親父も、こうしてキーを差し込んでからしばらく待っていた気がする。そうだ、子供のころの俺は、助手席で横目にそれを見ながら、お父さんはなにもたもたしてるんだろうと不思議がっていたのだった。
バッテリー上がりを防ぐために母が定期的にエンジンをかけてくれていたから、始動は苦労なく成功した。ひさしぶりに乗車したランクルは、ディーゼル独特の振動とアイドリングのガラガラ音が車内に響いたが、決して不快ではなかった。充分アイドリングをして心臓を暖めてから、シフトレバーをDレンジに入れてサイドブレーキを下ろす。手入れされていないでこぼこの地面でも、軽くアクセルを踏むだけで重い車体はめりめりと進む。
母の乗る軽自動車に先んじて、ランクルは車道に出た。運転席でステアリングを取りまわしてみて意外だったのは、とても運転が楽だということだ。油圧式のパワーステアリングはきびきびと反応するし、車高があるから視界も良好だ。ATの変速ももっとぎこちないかと思っていたがそんなことはなく、アクセルを踏み込めば車体の底から引っぱられるように順調に加速してゆく。
とても二十五年前のクルマとは思えない、と考えたところで、こいつは俺とそう歳が変わらないということに気づいた。三つ下の弟とほとんど一緒だ。聞いたことはないが、弟の誕生を祝して買ったのかもしれない。
運転席は初めてだが、このランクルからの高い眺めには馴染みがあった。子供のときから、さんざん助手席や後部座席にすわってきたのだ。最後に乗ったのはいつだったろう。両親と俺と三人で、サファリパークへ行ったときだったろうか。
あれはたしか母が行きたいと言いだしたのだった。細かいいきさつは覚えていないが、そのころ俺は二十四で東京に出たものの、あまり仕事がうまくいかずにくすぶっていて、ひさしぶりに帰省したおりにサファリパーク行きを誘われたのだ。姉や弟は仕事があって来られない。俺は暇だったが、いい年して親とそんなところに行くのは気恥ずかしかった。親父は当時まだ体が動いていたとはいえ、長らく家族サービスを忘れた男が運転を引き受けて付き合うのが意外だった。
そのサファリパークは自家用車で園内に乗り入れる方式で、トラやライオンが放し飼いになっているゾーンもあるから、ランクルはまさにうってつけだった。
俺たちを乗せたクルマは、サバンナのように乾いて土気の多い園内を徐行していく。
「まちがって轢いちゃったりはしないんだろうかね」
「平気だろう。これだけ遅いんだ」
母と親父が前席で会話しているのを、俺は後ろでぼんやり聞いていた。
「でも、猫とかよくクルマの下にもぐりこんでくるじゃない」
「なにがだって?」
「ネコ、ネコ」
「ああネコか」
「ほら、トラもライオンもネコ科だし」
「そうか、あれもネコか。でも、そんなチビじゃないだろ、ここの下に潜り込めるか」
「子供だっているし」
「あ?」
「生まれたばっかの、まだちっちゃいのさ」
「そうか、そんなのもいるのか」
「後ろからひょいっと下に入っちゃったらさ」
「動物はそういうのわからないからな」
少々耳の遠い親父は、何度か母の言葉を聞き返しながらも、穏やかにしゃべっていた。機嫌のいい親父を見るのは本当に久しぶりで、俺はライオンよりそっちのほうがよっぽど珍しいと感じていた。
晩年の親父はずいぶん丸くなっていたような気がする。事業が駄目になっていっそ肩の荷が下りたというのもあるだろうが、ようは年をとったということだろう。享年六十五というのは世間一般では若いとされるだろうが、親父は実年齢よりずっと老けて見えた。いつからか親父のイメージは、強圧的でおそろしい家長から、いつもベッドで缶ビールばかりをあおる世捨て人のようなものになっていた。飲み友達もおらず、俺も反面教師を見ていたから酒はやらなかったので、いつも親父は股引姿で一人だった。
その親父が、しらふでステアリングを握ってサファリパークを運転している。その後ろにすわった俺には、親父の肩がなんだか急にしぼんで見えてきて、妙な親近感が込み上げてきた。どうしてなのかはわからない。親父は本当に俺の親父なのだと実感した。
その親父がいた運転席に、いまは俺がいる。ただしオーナーというわけではなく、車検のために弟のものを運んでいるだけだ。クルマには興味がなかったのに、いまは少しだけその立場が惜しい気がした。
整備工場へランクルを届け、帰りは母の軽自動車に同乗する。なんとなくサファリパークの思い出話をすると、母から意外なことを聞かされた。行き先がそこになったのは母の希望だったが、俺を連れての行楽を提案したのは親父だったという。東京で頑張っている長男が久しぶりに帰ってくるのだから、息抜きにどこか連れていってやろうということだったらしい。
いまさらそんなこと知らされても困る。俺は憮然とした。なんだかまた親父のことが嫌いになりそうだった。
「それとねぇ、覚えてる? 二十年ぐらい前だったかな、みなかみのスキー場へ行ったの」
覚えてるよ。行ったけど雪が降ってなかったんだろ。
「そうそう。あれはひどかった」
俺が小学生のころ、親父の運転で、新潟県との県境にあるみなかみ町へスキー旅行をした。これは姉弟のうちのだれかの希望だった気がする。俺が頼んだのかもしれない。親父は土踏まずがないぐらい運動がからきしだし、母も身体を動かすのが大嫌いなたちで、スキーだなんて言いだすはずがない。
家族五人ランクルに乗り込んで揚々と出かけたものの、北上してみなかみに入っても、ちっとも周囲の景色が変わらない。雪が積もっていないのだ。この年は記録的な暖冬で、スキー場も丸坊主のままだった。そんなことも事前に調べずに遠乗りをするような間抜けな一家なのだ。途中でそのことに気づいた俺たちは車内で大笑いし、なにもせずUターンして家まで帰った。それ以来、家族旅行というものにはとんと縁がない。
「でもスキーなんかしなくてよかった。だれもやったことないんだもの。滑ってたらきっと大怪我してたよ」
たしかに、滑れなくて哀しかったというわけでもなく、家族全員で馬鹿なことをした笑い話として記憶に残っている。あのころは親父との関係も悪くはなかった。
車検にだしたランクルが帰ってきた。まだ働けるというお墨付きをもらって、心なしかちょっと顔つきも偉そうだ。すっかり散骨して片づいたはずの親父が、壮年の姿でまだ庭の奥に佇んでいる気がした。
弟は帰省するごとにクルマを交換していった。俺がたまに生家に顔をだすと、庭の奥にはスポーツカーが駐まっていることもあるし、ランクルがいることもあった。弟の乗ったランクルが庭先にもどってくると、家のなかにいても特徴的なエンジン音ですぐにわかった。そうか、あいつと一緒に向こうでいっぱい働いてきたか。しばらくこっちで休め。
しかし、そんなランクルの里帰りもついに完全な終わりを迎えた。弟の赴任先が変わり、今度は雪の多い地方に行くというのだ。FRのスポーツカーだと心許ないから、これを機にランクルに絞って乗っていくつもりだという。
以前、関東で大雪が降ったとき、ランクルで出社した弟は、道路のあちこちでスタックしている車両を見つけては、ロープで牽引して助けてやったことがあるらしい。
弟の乗っていたスポーツカーは、祖母宅のガレージへ寝かせておくことになった。そこはランクルを入れるには狭すぎるが、5ナンバーの背の低いクルマが隠居するのにうってつけだ。
弟がスポーツカーをガレージへ預けにいくというので、俺もランクルでついていった。祖母宅まで大した距離ではない。俺がこいつを運転するのもこれで最後かと思うと、ステアリングを握りしめる手に力が入った。
五月の昼下がりはよく空が澄んでいて、長い坂道沿いに植えられた桜並木の青葉が風に騒いでいた。開け放した窓から窓へ、乾いた暖かい空気が吹き抜けて前髪を払っていく。いつだったか、ちょうどこの季節に、こういう爽やかな風景のなかをランクルに乗って走ったことがあった気がする。
そうだ、中学生のころだ。運転する親父のとなりで、俺は気まずく縮こまっていた。部活の大会が開かれる会場へ、親父に送迎してもらわなければいけなかったからだ。これまでそういうのはすべて母に頼んでいた。
その少し前、母がクモ膜下出血で倒れたことがある。幸い、本人がすぐ救急車を呼んで緊急手術を受けられたため重大な後遺症もなく済んだが、母が入院中のあいだ俺たちの生活は一変した。家事を始めとする生活のあらゆることが、母なしには成り立たないと思い知らされた。親父は子供たちに、洗濯物を干すときは一度叩いて皺を伸ばしてから干せ、といった園児を相手にするようなことから教えなければならなかった。
事業が傾き始めた時期だったこともあり、当時の親父はだいぶ参っていたのだろう。子供たちに当たり散らすような態度が増えた。俺も反抗期だったこともあり、それまで悪くなかった父子関係が一気に不穏になった。
親父に、部活の大会があるから市民体育館まで送っていってくれないか、と頼むのにもかなりの勇気がいった。いざ切りだしてからも、仕事があるから無理だと言われたほうがいっそ楽だとすら思った。自転車で行くという手もあるにはあった。着くのに一時間以上かかるし、大会前だから体力の消耗が心配だが、それでも親父に頭を下げるストレスとどっちがましかと真剣に天秤に掛けねばならなかった。
親父はそっけなく了承した。いつも表情の変わらぬ男だからその胸中まではわからなかったが、怖かった。振り返れば、当時は親父のほうがよっぽど苦労していたのだから、こっちがもっと気を遣うべきだったかもしれない。しかし俺は未熟だったし、親父も息子に弱音を吐けるほど強くはなかった。
よく晴れた初夏の朝だった。世界は具合の好い陽光と清々しい大気で満ちているのに、親父の運転するランクルの助手席で、俺はずっと黙りこくっていた。話すことはないし、話したいという気持ちもない。ジャージ姿で前方だけ見つめてふてくされていた。親父も黙々と運転していた。オーディオもかけないから車内はランクルのうなりで満ちている。
唐突に、聞いたことのない声が間近から聞こえてきた。驚いてとなりを見る。それが親父から発せられたものであるとにわかに信じられなかったのは、いつもの低音とは違う、無理に高音をだそうとして上擦った声だったからだ。親父は歌っていた。ステアリングを動かしながら、仏頂面のままに、下手な鼻歌を口ずさんでいる。
どんなメロディだったのかは、いまとなっては覚えていない。俺の知らない曲で、当時の流行歌でなかったことはたしかだ。演歌でもなかった。団塊の若いころのフォークかもしれない。親父はカーステレオを使うことはないし、部屋にもオーディオがなかったから、どんな曲が好みなのかも知らなかった。そんな話すらついぞ満足にできなかった。
いきなり俺の知らない親父が出てきてとまどった。どう反応していいかわからず、相変わらずふてくされたように無視することしかできなかった。
生家のある赤城山麓の村から、盆地に広がる前橋市街へ向けて勾配のきつい坂道を下るあいだじゅう、親父は歌いつづけた。坂道の先で道が九十度折れるところでは、ステアリングを大きく回しながらこぶしを作るように喉に力を込めた。通りから通りへショートカットするために未舗装の砂利道に入ると、がたがたとクルマが揺れて歌にスタッカートがついた。俺はそれに半畳を入れるどころか、外にまで声が漏れやしないかと、そればかりが気にかかっていた。
街に到着して人が増えてくると、さすがに親父も静かになった。以降、市民体育館に到着するまで、結局俺たちはなにも話さずに終わった。
当時はわからなかったが、それは親父なりに息子への精一杯の歩み寄りだったのかもしれない。
俺はランクルを走らせながら、十代のころよく聴いていた曲を口ずさんでみた。見晴らしが良いからつい歌いたくなる気持ちもわかる。しかし運転しながらだと、親父のように下手くそにしか歌えなかった。
祖母宅のガレージにスポーツカーを納めた弟にランクルの運転を代わってもらい、俺は助手席に乗る。
帰る道すがら、弟に言った。
「古いクルマだから整備とか税金とか大変だろう」
「うん。でも、好きだからさ」
一人でこんなでかいのに乗ってると、余分にエネルギー使ってる気がしてこないか。
「まぁ、汗かきだよ。それでも、いつか結婚して家族とかできたら、この大きさでちょうどよくなってくるんじゃないかな」
さらりと言われて、そうか、もうそういう歳なのかと、助手席で妙な感慨にふけった。
親父の死から七年が過ぎた。弟は先日結婚した。会社次第だが、将来社宅を出て居を構えるかもしれないとのことだ。もちろんランクルもついていくのだろう。いつか子供ができて父親となったとき、その子を助手席に乗せて運転しながら、弟もふいに鼻歌を口ずさんだりするときが来るのだろうか。
願わくばそのときの歌声は、親父や俺のものよりも、もう少しだけましなものであってほしい
遺したものは、不動産屋としてみずから携わった築三十年の一軒家と、二十五年落ちの一台のクルマだけだった。
事業で失敗したから金はないし、趣味らしい趣味もなく、大げさでなく部屋はがらんどうだった。晩年は病がちでほとんど家から出なくなっていたので服も処分し、俺の記憶に残っている親父はいつも白い股引姿だ。
最後に生きている親父と会ったのは、俺が二十九で、お盆に帰省したときのことだ。親父はもう腹水がたまって、寝たきりになっていた。呼吸も始終苦しそうで、介護している母によると、ほとんど果物しか食べられなくなっているようだった。
酒が祟った肝硬変だった。周りがいくら説得しても病院へ行くことは本人が頑なに拒んだ。もともと糖尿を患っていたが、通院から遠のいて久しい。
死期を悟った親父は、長男である俺を枕元へ呼んで、二人きりの話をした。
「あれのことなんだけどな」
最初はなんのことだかわからなかった。
「お前は学校にやったから、あれは譲ってやれ」
ベッドに仰向いている親父の顔に耳を近づけて、その消え入りそうな声を必死に拾ってみると、それがどうやらランドクルーザーの話であるらしいことがわかった。うちは三人姉弟で、一つ上の姉と長男の俺は高校を出たあとも進学できたが、そこで家の蓄えがつき、三つ下の弟は進学できなかった。弟は平気な顔をして、もともと進学する気はなかったからべつにいいと高卒で働きに出たが、三人のなかで一番進学すべきだったのは弟なのにと俺はひそかに思っていた。
その弟に、家屋を除く唯一の財産であるランクル60をやるというのだ。むろん俺は賛成した。
くれぐれも葬式はあげてくれるな、散骨にしろ、といった後始末の希望を俺にぽつりぽつり伝え、親父は最後に、
「諸行無常」
と、しょげるようにつぶやいた。
葬式をあげるなと命じながら、最後にそんなことを言い残すなんて、この親父にしてはアイロニーが効いている。そんな神妙にしているやつほどまだまだ長生きするもんだ、と俺は励ますつもりで軽口を叩いたが、親父はさびしそうにほほえむだけだった。
それから一ヶ月と少しして親父は死んだ。
姉から電話で訃報を聞かされても、俺はとくに哀しいということはなかった。覚悟はしていたし、もともと仲が良かったわけでもない。むしろ俺は長らく親父を疎んじていた。親父は人嫌いで偏屈、なにかにつけてすぐ怒る性分な上に、やや耳も遠いものだから話すときも互いに怒鳴るようにしなければならず、よけいにこちらの気分が悪くなった。十代のころは何度後ろから殴りつけてやろうと思ったかわからない。
そんな親父の愛車だったから、決してランクルを欲しいとは思わなかった。弟はクルマ好きだから、ちょうどいい。
しかし、すんなりとはいかなかった。弟は全国に支店のあるホームセンターの社員なのだが、転勤が多く、数年ごとに住む場所が変わってしまう。親父が死んだときも地元の群馬とはべつの県で働いていた。社員寮に住んでいるという事情もあり、ふだん乗っているスポーツカーとランクル、二台とも引き連れていくことができず、結局ランクルは生家に留め置かれることになった。
群馬の片田舎だから庭だけは広く、野ざらしに駐めておくぶんには問題ないが、盗まれてもつまらないので、容易に持ちだされないよう庭の奥まったところに押し込めた。
「なんだかもったいない気がするねえ」
母の言葉に、でも仕方ないよ、だれも運転しないんだし、と俺はそっけなく返した。クルマに愛着のない俺は、いっそ売ってしまってもいいんじゃないかと思っていた。そのほうが面倒がなくていい。
「でもお父さんの形見だし」
母は少し名残惜しそうにしていた。弟も同じなようで、これからは定期的に帰省して、スポーツカーと交互に置き換えてローテーションで通勤に使うと言っていた。帰郷するのに何時間もかかるし、税金や車検代も馬鹿にならないだろうに、頭の下がる話だった。
芝生と雑草が伸び放題となった荒れ庭に、朱色と黄金色のサイドデカールの横線が走るランクルの車体はよく馴染んでいた。いまどきのクルマには見られないバンパーの無骨な張りだしと、角目4灯ヘッドランプの精悍なまなざしが、おれはここにいるぞと意気込んでいるようだ。
俺は故郷の村を出て一人暮らしをしていたから、もうランクルと関わることはないと思った。それが、しばらくして家に顔をだしたとき、母からランクルを運転してほしいと頼まれた。車検が切れるのだが、弟が仕事で忙しく、帰ってこられないらしい。代わりに俺が整備工場までクルマを運ぶことになった。
ランクルの運転は初めてで、その時分冬だったから、ちゃんとエンジンをかけられるか不安だった。ディーゼルの場合、グロープラグで予熱してからセルを回さなければいけないとだけ聞いていた。
手順を無視したら壊れるんじゃないかと心配し、白い息を吐きながらグローランプをじっと見つめた。そういえば親父も、こうしてキーを差し込んでからしばらく待っていた気がする。そうだ、子供のころの俺は、助手席で横目にそれを見ながら、お父さんはなにもたもたしてるんだろうと不思議がっていたのだった。
バッテリー上がりを防ぐために母が定期的にエンジンをかけてくれていたから、始動は苦労なく成功した。ひさしぶりに乗車したランクルは、ディーゼル独特の振動とアイドリングのガラガラ音が車内に響いたが、決して不快ではなかった。充分アイドリングをして心臓を暖めてから、シフトレバーをDレンジに入れてサイドブレーキを下ろす。手入れされていないでこぼこの地面でも、軽くアクセルを踏むだけで重い車体はめりめりと進む。
母の乗る軽自動車に先んじて、ランクルは車道に出た。運転席でステアリングを取りまわしてみて意外だったのは、とても運転が楽だということだ。油圧式のパワーステアリングはきびきびと反応するし、車高があるから視界も良好だ。ATの変速ももっとぎこちないかと思っていたがそんなことはなく、アクセルを踏み込めば車体の底から引っぱられるように順調に加速してゆく。
とても二十五年前のクルマとは思えない、と考えたところで、こいつは俺とそう歳が変わらないということに気づいた。三つ下の弟とほとんど一緒だ。聞いたことはないが、弟の誕生を祝して買ったのかもしれない。
運転席は初めてだが、このランクルからの高い眺めには馴染みがあった。子供のときから、さんざん助手席や後部座席にすわってきたのだ。最後に乗ったのはいつだったろう。両親と俺と三人で、サファリパークへ行ったときだったろうか。
あれはたしか母が行きたいと言いだしたのだった。細かいいきさつは覚えていないが、そのころ俺は二十四で東京に出たものの、あまり仕事がうまくいかずにくすぶっていて、ひさしぶりに帰省したおりにサファリパーク行きを誘われたのだ。姉や弟は仕事があって来られない。俺は暇だったが、いい年して親とそんなところに行くのは気恥ずかしかった。親父は当時まだ体が動いていたとはいえ、長らく家族サービスを忘れた男が運転を引き受けて付き合うのが意外だった。
そのサファリパークは自家用車で園内に乗り入れる方式で、トラやライオンが放し飼いになっているゾーンもあるから、ランクルはまさにうってつけだった。
俺たちを乗せたクルマは、サバンナのように乾いて土気の多い園内を徐行していく。
「まちがって轢いちゃったりはしないんだろうかね」
「平気だろう。これだけ遅いんだ」
母と親父が前席で会話しているのを、俺は後ろでぼんやり聞いていた。
「でも、猫とかよくクルマの下にもぐりこんでくるじゃない」
「なにがだって?」
「ネコ、ネコ」
「ああネコか」
「ほら、トラもライオンもネコ科だし」
「そうか、あれもネコか。でも、そんなチビじゃないだろ、ここの下に潜り込めるか」
「子供だっているし」
「あ?」
「生まれたばっかの、まだちっちゃいのさ」
「そうか、そんなのもいるのか」
「後ろからひょいっと下に入っちゃったらさ」
「動物はそういうのわからないからな」
少々耳の遠い親父は、何度か母の言葉を聞き返しながらも、穏やかにしゃべっていた。機嫌のいい親父を見るのは本当に久しぶりで、俺はライオンよりそっちのほうがよっぽど珍しいと感じていた。
晩年の親父はずいぶん丸くなっていたような気がする。事業が駄目になっていっそ肩の荷が下りたというのもあるだろうが、ようは年をとったということだろう。享年六十五というのは世間一般では若いとされるだろうが、親父は実年齢よりずっと老けて見えた。いつからか親父のイメージは、強圧的でおそろしい家長から、いつもベッドで缶ビールばかりをあおる世捨て人のようなものになっていた。飲み友達もおらず、俺も反面教師を見ていたから酒はやらなかったので、いつも親父は股引姿で一人だった。
その親父が、しらふでステアリングを握ってサファリパークを運転している。その後ろにすわった俺には、親父の肩がなんだか急にしぼんで見えてきて、妙な親近感が込み上げてきた。どうしてなのかはわからない。親父は本当に俺の親父なのだと実感した。
その親父がいた運転席に、いまは俺がいる。ただしオーナーというわけではなく、車検のために弟のものを運んでいるだけだ。クルマには興味がなかったのに、いまは少しだけその立場が惜しい気がした。
整備工場へランクルを届け、帰りは母の軽自動車に同乗する。なんとなくサファリパークの思い出話をすると、母から意外なことを聞かされた。行き先がそこになったのは母の希望だったが、俺を連れての行楽を提案したのは親父だったという。東京で頑張っている長男が久しぶりに帰ってくるのだから、息抜きにどこか連れていってやろうということだったらしい。
いまさらそんなこと知らされても困る。俺は憮然とした。なんだかまた親父のことが嫌いになりそうだった。
「それとねぇ、覚えてる? 二十年ぐらい前だったかな、みなかみのスキー場へ行ったの」
覚えてるよ。行ったけど雪が降ってなかったんだろ。
「そうそう。あれはひどかった」
俺が小学生のころ、親父の運転で、新潟県との県境にあるみなかみ町へスキー旅行をした。これは姉弟のうちのだれかの希望だった気がする。俺が頼んだのかもしれない。親父は土踏まずがないぐらい運動がからきしだし、母も身体を動かすのが大嫌いなたちで、スキーだなんて言いだすはずがない。
家族五人ランクルに乗り込んで揚々と出かけたものの、北上してみなかみに入っても、ちっとも周囲の景色が変わらない。雪が積もっていないのだ。この年は記録的な暖冬で、スキー場も丸坊主のままだった。そんなことも事前に調べずに遠乗りをするような間抜けな一家なのだ。途中でそのことに気づいた俺たちは車内で大笑いし、なにもせずUターンして家まで帰った。それ以来、家族旅行というものにはとんと縁がない。
「でもスキーなんかしなくてよかった。だれもやったことないんだもの。滑ってたらきっと大怪我してたよ」
たしかに、滑れなくて哀しかったというわけでもなく、家族全員で馬鹿なことをした笑い話として記憶に残っている。あのころは親父との関係も悪くはなかった。
車検にだしたランクルが帰ってきた。まだ働けるというお墨付きをもらって、心なしかちょっと顔つきも偉そうだ。すっかり散骨して片づいたはずの親父が、壮年の姿でまだ庭の奥に佇んでいる気がした。
弟は帰省するごとにクルマを交換していった。俺がたまに生家に顔をだすと、庭の奥にはスポーツカーが駐まっていることもあるし、ランクルがいることもあった。弟の乗ったランクルが庭先にもどってくると、家のなかにいても特徴的なエンジン音ですぐにわかった。そうか、あいつと一緒に向こうでいっぱい働いてきたか。しばらくこっちで休め。
しかし、そんなランクルの里帰りもついに完全な終わりを迎えた。弟の赴任先が変わり、今度は雪の多い地方に行くというのだ。FRのスポーツカーだと心許ないから、これを機にランクルに絞って乗っていくつもりだという。
以前、関東で大雪が降ったとき、ランクルで出社した弟は、道路のあちこちでスタックしている車両を見つけては、ロープで牽引して助けてやったことがあるらしい。
弟の乗っていたスポーツカーは、祖母宅のガレージへ寝かせておくことになった。そこはランクルを入れるには狭すぎるが、5ナンバーの背の低いクルマが隠居するのにうってつけだ。
弟がスポーツカーをガレージへ預けにいくというので、俺もランクルでついていった。祖母宅まで大した距離ではない。俺がこいつを運転するのもこれで最後かと思うと、ステアリングを握りしめる手に力が入った。
五月の昼下がりはよく空が澄んでいて、長い坂道沿いに植えられた桜並木の青葉が風に騒いでいた。開け放した窓から窓へ、乾いた暖かい空気が吹き抜けて前髪を払っていく。いつだったか、ちょうどこの季節に、こういう爽やかな風景のなかをランクルに乗って走ったことがあった気がする。
そうだ、中学生のころだ。運転する親父のとなりで、俺は気まずく縮こまっていた。部活の大会が開かれる会場へ、親父に送迎してもらわなければいけなかったからだ。これまでそういうのはすべて母に頼んでいた。
その少し前、母がクモ膜下出血で倒れたことがある。幸い、本人がすぐ救急車を呼んで緊急手術を受けられたため重大な後遺症もなく済んだが、母が入院中のあいだ俺たちの生活は一変した。家事を始めとする生活のあらゆることが、母なしには成り立たないと思い知らされた。親父は子供たちに、洗濯物を干すときは一度叩いて皺を伸ばしてから干せ、といった園児を相手にするようなことから教えなければならなかった。
事業が傾き始めた時期だったこともあり、当時の親父はだいぶ参っていたのだろう。子供たちに当たり散らすような態度が増えた。俺も反抗期だったこともあり、それまで悪くなかった父子関係が一気に不穏になった。
親父に、部活の大会があるから市民体育館まで送っていってくれないか、と頼むのにもかなりの勇気がいった。いざ切りだしてからも、仕事があるから無理だと言われたほうがいっそ楽だとすら思った。自転車で行くという手もあるにはあった。着くのに一時間以上かかるし、大会前だから体力の消耗が心配だが、それでも親父に頭を下げるストレスとどっちがましかと真剣に天秤に掛けねばならなかった。
親父はそっけなく了承した。いつも表情の変わらぬ男だからその胸中まではわからなかったが、怖かった。振り返れば、当時は親父のほうがよっぽど苦労していたのだから、こっちがもっと気を遣うべきだったかもしれない。しかし俺は未熟だったし、親父も息子に弱音を吐けるほど強くはなかった。
よく晴れた初夏の朝だった。世界は具合の好い陽光と清々しい大気で満ちているのに、親父の運転するランクルの助手席で、俺はずっと黙りこくっていた。話すことはないし、話したいという気持ちもない。ジャージ姿で前方だけ見つめてふてくされていた。親父も黙々と運転していた。オーディオもかけないから車内はランクルのうなりで満ちている。
唐突に、聞いたことのない声が間近から聞こえてきた。驚いてとなりを見る。それが親父から発せられたものであるとにわかに信じられなかったのは、いつもの低音とは違う、無理に高音をだそうとして上擦った声だったからだ。親父は歌っていた。ステアリングを動かしながら、仏頂面のままに、下手な鼻歌を口ずさんでいる。
どんなメロディだったのかは、いまとなっては覚えていない。俺の知らない曲で、当時の流行歌でなかったことはたしかだ。演歌でもなかった。団塊の若いころのフォークかもしれない。親父はカーステレオを使うことはないし、部屋にもオーディオがなかったから、どんな曲が好みなのかも知らなかった。そんな話すらついぞ満足にできなかった。
いきなり俺の知らない親父が出てきてとまどった。どう反応していいかわからず、相変わらずふてくされたように無視することしかできなかった。
生家のある赤城山麓の村から、盆地に広がる前橋市街へ向けて勾配のきつい坂道を下るあいだじゅう、親父は歌いつづけた。坂道の先で道が九十度折れるところでは、ステアリングを大きく回しながらこぶしを作るように喉に力を込めた。通りから通りへショートカットするために未舗装の砂利道に入ると、がたがたとクルマが揺れて歌にスタッカートがついた。俺はそれに半畳を入れるどころか、外にまで声が漏れやしないかと、そればかりが気にかかっていた。
街に到着して人が増えてくると、さすがに親父も静かになった。以降、市民体育館に到着するまで、結局俺たちはなにも話さずに終わった。
当時はわからなかったが、それは親父なりに息子への精一杯の歩み寄りだったのかもしれない。
俺はランクルを走らせながら、十代のころよく聴いていた曲を口ずさんでみた。見晴らしが良いからつい歌いたくなる気持ちもわかる。しかし運転しながらだと、親父のように下手くそにしか歌えなかった。
祖母宅のガレージにスポーツカーを納めた弟にランクルの運転を代わってもらい、俺は助手席に乗る。
帰る道すがら、弟に言った。
「古いクルマだから整備とか税金とか大変だろう」
「うん。でも、好きだからさ」
一人でこんなでかいのに乗ってると、余分にエネルギー使ってる気がしてこないか。
「まぁ、汗かきだよ。それでも、いつか結婚して家族とかできたら、この大きさでちょうどよくなってくるんじゃないかな」
さらりと言われて、そうか、もうそういう歳なのかと、助手席で妙な感慨にふけった。
親父の死から七年が過ぎた。弟は先日結婚した。会社次第だが、将来社宅を出て居を構えるかもしれないとのことだ。もちろんランクルもついていくのだろう。いつか子供ができて父親となったとき、その子を助手席に乗せて運転しながら、弟もふいに鼻歌を口ずさんだりするときが来るのだろうか。
願わくばそのときの歌声は、親父や俺のものよりも、もう少しだけましなものであってほしい
『苦楽を共にした相棒』
「よく働いてくれたなあ。本当にご苦労さま。ありがとう」
2017年、カンボジアの首都・プノンペン。車両を手放すため中古車センターを訪れた私は、6年間にわたり当地で苦楽を共にしてきた「相棒」のランドクルーザーV6に、心の中でそっと手を合わせました。
◇
相棒との出会いは、2011年にさかのぼります。私は自衛官を定年退官した直後の2002年5月から約9年間、かつてPKO活動に従事したカンボジアに再び渡り、認定NPO法人「日本地雷処理を支援する会」の一員として、不発弾や地雷の処理、地域復興支援の活動に携わってきました。
諸般の事情から2010年12月に退会し、翌年7月、後に認定NPO法人となる「国際地雷処理・地域復興支援の会」(IMCCD)を松山市で立ち上げました。IMCCDが地雷や不発弾処理の活動地としたのは、プノンペンの約450キロ北西、タイ国境に接する「地雷ベルト地帯」と称されるエリアでした。
1970年代から1990年代にかけて、カンボジアでは共産化をもくろむポル・ポト軍と、それを制圧しようとする政府軍、政府軍を支援するベトナム軍の間で、血で血を洗うような激しい戦闘が繰り広げられました。私たちの活動地は最後の激戦地となった地域で、今なお地雷や不発弾が数多く残り、負の遺産としてカンボジア農村部の復興を妨げています。
現地での活動には、内戦で荒廃した悪路でも走行できる車が何としても必要だったのです。車という足がなければ、文字通り手も足も出ないのが実情です。
◇
「このランドクルーザーV6は、いくらですか」
「3万6千ドルです」
プノンペンにある中古車センターのオーナーは、私にそう告げました。
当時、創設したばかりのIMCCDは、総資産がわずか21万円。代表の私は愛媛県松山市から上京する飛行機に乗るお金もなく、夜行バスで東京に出てカンボジアに来ていました。現地での支援活動に必要となる全ての経費は当面、私の自己負担でした。私はカンボジアの銀行にドルで預金していましたが、口座にあるのは3万2千ドル。これでは足りません。
どうしても入手しなければならず、私は店のオーナーに価格交渉を持ち掛けました。
「3万6千ドルは持っていません。もう少し安くしてもらえませんか」
同行していたカンボジア人通訳のソックミエン君が加勢してくれました。
「この日本人は、元は日本の軍人で、1992年から1993年にかけて、カンボジアPKOで新生カンボジアの再建に尽力された方です。今回は、軍をリタイアメントして再びカンボジアの復興支援に来てくれたのです。もう少し安くしてあげてくれませんか」
「そうだったのですか、それでは4千ドル値引きして、3万2千ドルにしましょう」
こうして何とか交渉が成立しました。早速、銀行に行って預金を全額引き出し、代金を支払いました。
私は全財産をはたいて買った20年落ちのランドクルーザーV6のハンドルを握り、ソックミエン君を助手席に乗せ、一路、バッタンバン州都へ向かいました。国道5号線を約300キロ走って州都へ。さらにタイ国境に隣接する活動地、タサエン村に向けて150キロの荒れた道を走らせました。使用開始から20年を経ているとはいえ、さすが天下のランドクルーザー。車内の居住性がとびきりよく、少々の悪路にはびくともしません。
◇
IMCCDの創設前に私が所属していた「日本地雷処理を支援する会」は、日本政府から資金援助を受けていましたので、お金に困ることもなく活動出来ていました。一方、IMCCDは日本政府の援助は当てにしないという方針で立ち上げましたので、使えるお金には天と地ほどの差がありました。
「日本地雷処理―」を退会後にカンボジアに入った際は、ソックミエン君のお兄さんが所有していた30年前の廃車寸前の古車を借りて、プノンペンから目的地のタサエン村に移動しました。
450キロ先の村まで到着できるかどうかもおぼつかないポンコツ車を運転しながら、正直涙の出る思いでした。助手席に座るソックミエン君に、悔し紛れに言ったものでした。
「そのうち、ピッカピッカのランドクルーザーに乗せてやるから。今は我慢の時だ」
それは自分へのせめてもの慰め、やせ我慢の言葉でした。道路脇から牛がぶつかってきたり、石ころだらけの悪路でタイヤがパンクをしたりと散々な道中でしたが、何とか村にたどり着くことができました。ただ、村内の道路はぬかるみやデコボコが酷く、セダンのポンコツ車ではとても地雷原に行くことができず、全く活動には適さないものでした。
村では、それまで一緒に活動してきた地雷処理チームの仲間たちに「日本地雷処理―」を退会した理由を説明し、別れを告げるなど、つらく苦しく悲しい時間を過ごしました。
最小規模のIMCCDとして、より地域の実情に寄り添った支援活動を始める調整などを済ませ、日本に帰国しました。支援の「本質」を追求するという思いから、大きな希望を抱きIMCCDを立ち上げる決心をしたのですが、天から地に落ちたような挫折感があったことも事実です。
日本に帰り、IMCCDの定款の仕上げや調整を行い、愛媛県にNPO法人の設立を申請しました。
◇
さまざまな思いを抱えて再びカンボジアに赴いた私は、まずは活動の足として不可欠な車を調達することにしました。プノンペン市内の中古車店を数カ所見て回り、手ごろな中古車を展示している店を見つけました。オーナーの人柄も良さそうでした。
手持ち資金で何とかまかなえそうなランドクルーザーV6を見つけて交渉し、念願の相棒を手に入れたというわけです。
ピッカピカの新車ではありませんでしたが、居住性がよく、悪路も問題なく走行できます。前部にウインチが付いているので、ぬかるみで立ち往生したときなども脱出できて安心です。
活動地・タサエン村のIMCCDの宿舎に帰ると、村人たちが車のところにわらわら集まってきて、車を舐めるように見ていました。
「ター(私の呼び名)、いい車買ったですね」。
◇
相棒となったランドクルーザーV6は、2011年から2017年までの6年間、まさに現地での活動を支える足となって大活躍してくれました。悪路を含め年3万キロは走る過酷な使い方をしますので、プノンペンに行った時に整備工場に入れてやり、タイヤや足回り、ブレーキなどの部品交換やメンテナンスをしました。いつもより馬力がなくなり、真っ黒な排気ガスが出るようになった時、1度だけエンジンをオーバーホールしました。確か2千ドルほどかかったと記憶しています。
月に1、2回はプノンペンに行く業務がありました。片道450キロの道のりなので、1回行けば、最低でも往復1千キロほど走ることになります。5千キロ走るたびにエンジンオイルを交換していましたから、たびたび交換が必要となりました。
ほかにも地雷原に行ったり、バッタンバン州都に行ったり、とにかくたくさん走ります。乾季は問題ないのですが、雨季になると150キロ離れたバッタンバン州都まで出るのにも大変な気を使います。
首都プノンペンに通じる道は3ルートありますが、どのルートを走るか決めるには、慎重な検討を要します。まずルート上の住民に電話をかけ、道路状況や立ち往生している車がないかどうかを確認し、状況を把握します。その確認も出発直前でなければ最新の状況が反映されないため、朝、3ルートとも全て事前確認し、走る道を決めます。
それでも実際に行ってみると、前夜のスコールで河川が氾濫し道路が冠水している所があるなど、朝の電話では分からなかった事態に遭遇することがままあります。
復旧の見通しが立たない場合、何とか通過できそうな経路を選び、取りあえず行ってみます。車の中には常に水や非常用糧食、蚊取り線香、蚊帳、ハンモックなどを積み、一晩野営をしなければならない状況に備えます。
大型貨物車が3、4台立ち往生し、横倒しになって私たちのランドクルーザーが前に進めないことがありました。この時は、村人が側路に簡易な丸太の橋を架けて渡してくれました。5千リエル(1ドル=4千リエル)をチップとして渡し、車両が立ち往生している場所をクリアできたこともあります。
大型トラックがパネル橋を通過しようとした際、荷重が原因で橋の中央部が折れてしまったことがありました。後方から来た別の大型トラックが橋の側路を通過しようとしましたが、埋設されていた対戦車地雷を踏んでしまい、後部のトリプルタイヤ3本が大破。私は2次被害を防ぐためカンボジア地雷対策センター(CMAC)に電話し、周辺の地雷を探知するように依頼しました。
バッタンバン州都からプノンペンまでは300キロほどの距離です。日本の道路のような鏡面のごとき舗装ではありませんが、一応、舗装されています。タサエン村からプノンペンまでは約9時間かかりますが、相棒ランドクルーザーV6は幸い、長時間運転しても疲れをほとんど感じません。
地雷原に行くために路外地域を走ることもありますが、雨季以外は少々荒れた道でも走破してくれました。たまに立ち往生するものの、前部に装備されているウインチを使えば自力で抜け出せます。
預金全額をはたいて買った相棒は、IMCCD創設当初の苦しい時期に、実によく働いてくれました。どんなに故障して部品代や修理代がかかっても手放したくないほど愛着を感じていました。
しかし、2017年になってタサエン村からプノンペンに至る片道を走るだけでも頻繁に故障するようになり、修理工場に入れて修理が完了するまで3、4日かかることが多くなりました。そうなると活動ができなくなります。
高齢者に「頑張れ、頑張れ」と言い、42・195キロのフルマラソンを無理矢理走らせているように思えてきました。手放したくないという思いと、このままでは活動に支障をきたすという思いの狭間で葛藤し、結局、私を6年間助けてくれた相棒を手放すことに決めました。
購入したプノンペンの中古車センターでこの車を買い取ってもらい、新しいランドクルーザーに買い換えることにしました。苦楽を共にした相棒との別れはつらいものです。心の中で深く感謝し、役目を終えたランドクルーザーの写真を何枚も撮りました。
◇
新しいランドクルーザーを選ぶ時、いくつか購入の候補となる車と出会いました。その中でも比較的新しい型式のランドクルーザーが目にとまり、オーナーと交渉しました。V8エンジンで10年落ち。車両本体価格は3万ドルでしたが、税金が100%かかりますので、締めて総額6万ドルになります。前の相棒V6を購入した時は、支払った3万2千ドルには税金も含まれていましたので、今回とは大違いです。
6万ドルを工面しなければならなくなり、ほとほと困りました。IMCCDの財源は皆さまからの会費やご寄付でまかなっていますので、6万ドルという高額の支出はとても無理です。
考えた末、心当たりの方にまとまったご寄付をお願いするしか方法がないとの結論に至りました。ある方にお願いに行き、何と300万円を寄付していただきました。別の方にも事情を話して頼み込み、100万円のご寄付をいただきました。そして、ランドクルーザーV6の買い取りを1万ドルでお願いしました。あれこれかき集めて、なんとか総額6万ドルを支払うことができました。
◇
最初の相棒の後継車として、私たちの現地活動を支えてくれるランドクルーザーV8が手に入ったことで、活動がずいぶん容易になりました。前の車に装備されていたウインチを2代目にも取り付け、悪路などで立ち往生するトラブルに対応できるようにしました。
地雷原は、道路がない林の中や、畑の中、山の急斜面、川の側など様々な場所にあります。その場所まで車で入るのですが、その場合には必ず事前に走行する場所を地雷探知して安全を確認します。また、乾季の時にはあまり心配しなくてもいいのですが、雨季の時は雨がいつ来るかを予測しながら地雷探知します。それは、雨が降り出して慌てて地盤のしっかりした道路まで出ようとしても、泥濘化した道路のない軟弱な場所を走行することはできなくなります。無理やり脱出を試みるのですが、4輪駆動に切り替えても横に滑ったり、全く意図する方向に前進できなくなり、悪戦苦闘をすることになりますが、相棒ならなんとか泥濘化した軟弱な場所から脱出することができるのです。また、村人が大怪我をしたときにも、ランドクルーザーで3時間かかる病院まで運ぶことができました。村には病院がありませんので、緊急搬送の時にも村人は、このみんなの相棒ランドクルーザーV8に期待をかけています。
それから既に3年が経過し、2代目相棒は今日も快調に活躍してくれています。年間およそ3万キロを走破する活動において、この新たな相棒の存在は大変大きいものがあります。悪路を突っ切って地雷原に行ったり、村々を回って地雷や不発弾を回収したり、450キロ離れたプノンペンまで走ったり。期待通りの働きに安心感と信頼があります。
苦しい時も、楽しい時もいつも一緒にいてくれた初代相棒のV6、そして2代目のV8。ランドクルーザーという得がたい相棒とともに紡いださまざまな思い出は、心の中に深く刻まれています。同時に、ご支援を頂いている多くの皆さまに心から感謝しています。
◇
「なぜ危険を冒してまで、地雷や不発弾の処理といった支援活動をするのですか」
そう問われることがしばしばあります。理由はいろいろありますが、強いて言えば、内戦という状況の中で埋められた地雷は、人間が犯した過ちだという思いがあるからです。その過ちを子や孫の代まで放置してはならないのです。犯した過ちは、今を生きる私たちが正さねばなりません。
活動を継続していく中で「地雷や不発弾の処理活動が最終目的ではない。地域が安全になって、そこに暮らす人たちが生活できるための地域復興が不可欠だ」と思うようになりました。農業や地場産業の発展につなげる、より高度で幅広い支援活動の必要性を感じています。
私は内戦という過酷な現実に苦しんだ地域で戦後処理に従事しながら、平和の尊さを訴え続けたいと思っています。そして「どうすれば戦争や紛争のない社会をつくることができるか」という現実的な平和構築の種まきを世界に広げていきたいのです。
戦禍に傷ついた地域で、地雷や不発弾という負の遺産と黙々と向き合いながら、空想的ではなく現実的な平和論を訴えて平和の種をまく。それが私たちIMCCDの目指すところです。その活動を、今日もランドクルーザーがしっかりと支えてくれています。(了)
2017年、カンボジアの首都・プノンペン。車両を手放すため中古車センターを訪れた私は、6年間にわたり当地で苦楽を共にしてきた「相棒」のランドクルーザーV6に、心の中でそっと手を合わせました。
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相棒との出会いは、2011年にさかのぼります。私は自衛官を定年退官した直後の2002年5月から約9年間、かつてPKO活動に従事したカンボジアに再び渡り、認定NPO法人「日本地雷処理を支援する会」の一員として、不発弾や地雷の処理、地域復興支援の活動に携わってきました。
諸般の事情から2010年12月に退会し、翌年7月、後に認定NPO法人となる「国際地雷処理・地域復興支援の会」(IMCCD)を松山市で立ち上げました。IMCCDが地雷や不発弾処理の活動地としたのは、プノンペンの約450キロ北西、タイ国境に接する「地雷ベルト地帯」と称されるエリアでした。
1970年代から1990年代にかけて、カンボジアでは共産化をもくろむポル・ポト軍と、それを制圧しようとする政府軍、政府軍を支援するベトナム軍の間で、血で血を洗うような激しい戦闘が繰り広げられました。私たちの活動地は最後の激戦地となった地域で、今なお地雷や不発弾が数多く残り、負の遺産としてカンボジア農村部の復興を妨げています。
現地での活動には、内戦で荒廃した悪路でも走行できる車が何としても必要だったのです。車という足がなければ、文字通り手も足も出ないのが実情です。
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「このランドクルーザーV6は、いくらですか」
「3万6千ドルです」
プノンペンにある中古車センターのオーナーは、私にそう告げました。
当時、創設したばかりのIMCCDは、総資産がわずか21万円。代表の私は愛媛県松山市から上京する飛行機に乗るお金もなく、夜行バスで東京に出てカンボジアに来ていました。現地での支援活動に必要となる全ての経費は当面、私の自己負担でした。私はカンボジアの銀行にドルで預金していましたが、口座にあるのは3万2千ドル。これでは足りません。
どうしても入手しなければならず、私は店のオーナーに価格交渉を持ち掛けました。
「3万6千ドルは持っていません。もう少し安くしてもらえませんか」
同行していたカンボジア人通訳のソックミエン君が加勢してくれました。
「この日本人は、元は日本の軍人で、1992年から1993年にかけて、カンボジアPKOで新生カンボジアの再建に尽力された方です。今回は、軍をリタイアメントして再びカンボジアの復興支援に来てくれたのです。もう少し安くしてあげてくれませんか」
「そうだったのですか、それでは4千ドル値引きして、3万2千ドルにしましょう」
こうして何とか交渉が成立しました。早速、銀行に行って預金を全額引き出し、代金を支払いました。
私は全財産をはたいて買った20年落ちのランドクルーザーV6のハンドルを握り、ソックミエン君を助手席に乗せ、一路、バッタンバン州都へ向かいました。国道5号線を約300キロ走って州都へ。さらにタイ国境に隣接する活動地、タサエン村に向けて150キロの荒れた道を走らせました。使用開始から20年を経ているとはいえ、さすが天下のランドクルーザー。車内の居住性がとびきりよく、少々の悪路にはびくともしません。
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IMCCDの創設前に私が所属していた「日本地雷処理を支援する会」は、日本政府から資金援助を受けていましたので、お金に困ることもなく活動出来ていました。一方、IMCCDは日本政府の援助は当てにしないという方針で立ち上げましたので、使えるお金には天と地ほどの差がありました。
「日本地雷処理―」を退会後にカンボジアに入った際は、ソックミエン君のお兄さんが所有していた30年前の廃車寸前の古車を借りて、プノンペンから目的地のタサエン村に移動しました。
450キロ先の村まで到着できるかどうかもおぼつかないポンコツ車を運転しながら、正直涙の出る思いでした。助手席に座るソックミエン君に、悔し紛れに言ったものでした。
「そのうち、ピッカピッカのランドクルーザーに乗せてやるから。今は我慢の時だ」
それは自分へのせめてもの慰め、やせ我慢の言葉でした。道路脇から牛がぶつかってきたり、石ころだらけの悪路でタイヤがパンクをしたりと散々な道中でしたが、何とか村にたどり着くことができました。ただ、村内の道路はぬかるみやデコボコが酷く、セダンのポンコツ車ではとても地雷原に行くことができず、全く活動には適さないものでした。
村では、それまで一緒に活動してきた地雷処理チームの仲間たちに「日本地雷処理―」を退会した理由を説明し、別れを告げるなど、つらく苦しく悲しい時間を過ごしました。
最小規模のIMCCDとして、より地域の実情に寄り添った支援活動を始める調整などを済ませ、日本に帰国しました。支援の「本質」を追求するという思いから、大きな希望を抱きIMCCDを立ち上げる決心をしたのですが、天から地に落ちたような挫折感があったことも事実です。
日本に帰り、IMCCDの定款の仕上げや調整を行い、愛媛県にNPO法人の設立を申請しました。
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さまざまな思いを抱えて再びカンボジアに赴いた私は、まずは活動の足として不可欠な車を調達することにしました。プノンペン市内の中古車店を数カ所見て回り、手ごろな中古車を展示している店を見つけました。オーナーの人柄も良さそうでした。
手持ち資金で何とかまかなえそうなランドクルーザーV6を見つけて交渉し、念願の相棒を手に入れたというわけです。
ピッカピカの新車ではありませんでしたが、居住性がよく、悪路も問題なく走行できます。前部にウインチが付いているので、ぬかるみで立ち往生したときなども脱出できて安心です。
活動地・タサエン村のIMCCDの宿舎に帰ると、村人たちが車のところにわらわら集まってきて、車を舐めるように見ていました。
「ター(私の呼び名)、いい車買ったですね」。
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相棒となったランドクルーザーV6は、2011年から2017年までの6年間、まさに現地での活動を支える足となって大活躍してくれました。悪路を含め年3万キロは走る過酷な使い方をしますので、プノンペンに行った時に整備工場に入れてやり、タイヤや足回り、ブレーキなどの部品交換やメンテナンスをしました。いつもより馬力がなくなり、真っ黒な排気ガスが出るようになった時、1度だけエンジンをオーバーホールしました。確か2千ドルほどかかったと記憶しています。
月に1、2回はプノンペンに行く業務がありました。片道450キロの道のりなので、1回行けば、最低でも往復1千キロほど走ることになります。5千キロ走るたびにエンジンオイルを交換していましたから、たびたび交換が必要となりました。
ほかにも地雷原に行ったり、バッタンバン州都に行ったり、とにかくたくさん走ります。乾季は問題ないのですが、雨季になると150キロ離れたバッタンバン州都まで出るのにも大変な気を使います。
首都プノンペンに通じる道は3ルートありますが、どのルートを走るか決めるには、慎重な検討を要します。まずルート上の住民に電話をかけ、道路状況や立ち往生している車がないかどうかを確認し、状況を把握します。その確認も出発直前でなければ最新の状況が反映されないため、朝、3ルートとも全て事前確認し、走る道を決めます。
それでも実際に行ってみると、前夜のスコールで河川が氾濫し道路が冠水している所があるなど、朝の電話では分からなかった事態に遭遇することがままあります。
復旧の見通しが立たない場合、何とか通過できそうな経路を選び、取りあえず行ってみます。車の中には常に水や非常用糧食、蚊取り線香、蚊帳、ハンモックなどを積み、一晩野営をしなければならない状況に備えます。
大型貨物車が3、4台立ち往生し、横倒しになって私たちのランドクルーザーが前に進めないことがありました。この時は、村人が側路に簡易な丸太の橋を架けて渡してくれました。5千リエル(1ドル=4千リエル)をチップとして渡し、車両が立ち往生している場所をクリアできたこともあります。
大型トラックがパネル橋を通過しようとした際、荷重が原因で橋の中央部が折れてしまったことがありました。後方から来た別の大型トラックが橋の側路を通過しようとしましたが、埋設されていた対戦車地雷を踏んでしまい、後部のトリプルタイヤ3本が大破。私は2次被害を防ぐためカンボジア地雷対策センター(CMAC)に電話し、周辺の地雷を探知するように依頼しました。
バッタンバン州都からプノンペンまでは300キロほどの距離です。日本の道路のような鏡面のごとき舗装ではありませんが、一応、舗装されています。タサエン村からプノンペンまでは約9時間かかりますが、相棒ランドクルーザーV6は幸い、長時間運転しても疲れをほとんど感じません。
地雷原に行くために路外地域を走ることもありますが、雨季以外は少々荒れた道でも走破してくれました。たまに立ち往生するものの、前部に装備されているウインチを使えば自力で抜け出せます。
預金全額をはたいて買った相棒は、IMCCD創設当初の苦しい時期に、実によく働いてくれました。どんなに故障して部品代や修理代がかかっても手放したくないほど愛着を感じていました。
しかし、2017年になってタサエン村からプノンペンに至る片道を走るだけでも頻繁に故障するようになり、修理工場に入れて修理が完了するまで3、4日かかることが多くなりました。そうなると活動ができなくなります。
高齢者に「頑張れ、頑張れ」と言い、42・195キロのフルマラソンを無理矢理走らせているように思えてきました。手放したくないという思いと、このままでは活動に支障をきたすという思いの狭間で葛藤し、結局、私を6年間助けてくれた相棒を手放すことに決めました。
購入したプノンペンの中古車センターでこの車を買い取ってもらい、新しいランドクルーザーに買い換えることにしました。苦楽を共にした相棒との別れはつらいものです。心の中で深く感謝し、役目を終えたランドクルーザーの写真を何枚も撮りました。
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新しいランドクルーザーを選ぶ時、いくつか購入の候補となる車と出会いました。その中でも比較的新しい型式のランドクルーザーが目にとまり、オーナーと交渉しました。V8エンジンで10年落ち。車両本体価格は3万ドルでしたが、税金が100%かかりますので、締めて総額6万ドルになります。前の相棒V6を購入した時は、支払った3万2千ドルには税金も含まれていましたので、今回とは大違いです。
6万ドルを工面しなければならなくなり、ほとほと困りました。IMCCDの財源は皆さまからの会費やご寄付でまかなっていますので、6万ドルという高額の支出はとても無理です。
考えた末、心当たりの方にまとまったご寄付をお願いするしか方法がないとの結論に至りました。ある方にお願いに行き、何と300万円を寄付していただきました。別の方にも事情を話して頼み込み、100万円のご寄付をいただきました。そして、ランドクルーザーV6の買い取りを1万ドルでお願いしました。あれこれかき集めて、なんとか総額6万ドルを支払うことができました。
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最初の相棒の後継車として、私たちの現地活動を支えてくれるランドクルーザーV8が手に入ったことで、活動がずいぶん容易になりました。前の車に装備されていたウインチを2代目にも取り付け、悪路などで立ち往生するトラブルに対応できるようにしました。
地雷原は、道路がない林の中や、畑の中、山の急斜面、川の側など様々な場所にあります。その場所まで車で入るのですが、その場合には必ず事前に走行する場所を地雷探知して安全を確認します。また、乾季の時にはあまり心配しなくてもいいのですが、雨季の時は雨がいつ来るかを予測しながら地雷探知します。それは、雨が降り出して慌てて地盤のしっかりした道路まで出ようとしても、泥濘化した道路のない軟弱な場所を走行することはできなくなります。無理やり脱出を試みるのですが、4輪駆動に切り替えても横に滑ったり、全く意図する方向に前進できなくなり、悪戦苦闘をすることになりますが、相棒ならなんとか泥濘化した軟弱な場所から脱出することができるのです。また、村人が大怪我をしたときにも、ランドクルーザーで3時間かかる病院まで運ぶことができました。村には病院がありませんので、緊急搬送の時にも村人は、このみんなの相棒ランドクルーザーV8に期待をかけています。
それから既に3年が経過し、2代目相棒は今日も快調に活躍してくれています。年間およそ3万キロを走破する活動において、この新たな相棒の存在は大変大きいものがあります。悪路を突っ切って地雷原に行ったり、村々を回って地雷や不発弾を回収したり、450キロ離れたプノンペンまで走ったり。期待通りの働きに安心感と信頼があります。
苦しい時も、楽しい時もいつも一緒にいてくれた初代相棒のV6、そして2代目のV8。ランドクルーザーという得がたい相棒とともに紡いださまざまな思い出は、心の中に深く刻まれています。同時に、ご支援を頂いている多くの皆さまに心から感謝しています。
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「なぜ危険を冒してまで、地雷や不発弾の処理といった支援活動をするのですか」
そう問われることがしばしばあります。理由はいろいろありますが、強いて言えば、内戦という状況の中で埋められた地雷は、人間が犯した過ちだという思いがあるからです。その過ちを子や孫の代まで放置してはならないのです。犯した過ちは、今を生きる私たちが正さねばなりません。
活動を継続していく中で「地雷や不発弾の処理活動が最終目的ではない。地域が安全になって、そこに暮らす人たちが生活できるための地域復興が不可欠だ」と思うようになりました。農業や地場産業の発展につなげる、より高度で幅広い支援活動の必要性を感じています。
私は内戦という過酷な現実に苦しんだ地域で戦後処理に従事しながら、平和の尊さを訴え続けたいと思っています。そして「どうすれば戦争や紛争のない社会をつくることができるか」という現実的な平和構築の種まきを世界に広げていきたいのです。
戦禍に傷ついた地域で、地雷や不発弾という負の遺産と黙々と向き合いながら、空想的ではなく現実的な平和論を訴えて平和の種をまく。それが私たちIMCCDの目指すところです。その活動を、今日もランドクルーザーがしっかりと支えてくれています。(了)